■[報告]ヨーロッパ(ルーマニアからスロバキア)
□作成:2005年6月9日
□送信:アメリカ・ポートランド

▼概要

ブルガリアからドナウ川を渡り、ルーマニアへ入る。そしてドナウ沿いにセルビアのベオグラード、そしてハンガリーのブタペストへと進んだ。

▼静かなドナウ

ブルガリアのビディンからフェリーに乗り、ルーマニアへ渡った。

交通量が少なく船は客を二時間待ってから出発した。のんきな物だとあきれてしまうが仕方がない。同船のセルビア人は以前3日待ったことがあるそうだ。それはともかくヨーロッパはいちいちビザを取らなくても自由に入国できるので旅行が非常に楽だ。東欧ではまだ各国ごとに通貨の両替が面倒だったが、「西」ではそれすら不要になってしまった。

ルーマニア側の町・カラファットはビディンよりさらに小さく、閑散としていた。
ブルガリア以上に貧しく、時が止まっている。まずは遺跡のような銀行に入り両替をした。銀行では「西」で働く親戚からの仕送りを受け取る人たちが行列を作っていた。

ルーマニアは名前の通りローマ人の国なのでスラブ系とは印象がかなり違っていた。よく言えばフレンドリー、悪く言えば軽薄な感じがする。

しかし万国共通で田舎に行くほど親切なことだけは間違いなかった。この町でインターネットカフェの場所を聞いたらわざわざ店まで連れていってくれた。彼はにこにこ笑うといつの間にか私の利用料を払い、さりげなく帰ってしまった。なんとお礼を言って良いかわから無い。ただ「ありがとう」を繰り返し頭を下げるばかりだ。 ルーマニアに入り、町の構成も変わった。要所要所に住宅が集中せず、街道沿いに転々と続くようになった。野宿は少しやりにくいパターンだ。 困って民家にキャンプを申し出ると古いキャンピングカーをかしてくれた。雨が降っていただけにとてもありがたかった。

▼豊かなセルビア

西欧なら大観光地帯になっていそうな閑散としたドナウの急流地帯をすり抜けると、私はルーマニアを出て、セルビア・モンテネグロに入国した。新ユーゴスラビアと呼ばれていた国である。戦後でどんな状態か不安を抱えての入国だった。しかし入ってみるとルーマニアより段違いに豊かで驚かされた。ルーマニアでど田舎ばかり走ってしまったのも一因だが、それにしてもセルビアは物が豊かだった。首都ベオグラードに着いてもどこに空爆を受けたかわからぬ位の町並みだった。

▼自転車仲間に会う

翌朝宿に荷物を置き空荷で町へ。

まずはオペラのチケットを買おうと国立劇場へ向かった。 劇場の前に着くとその真ん前で偶然自転車のグループと出会った。同じ趣味を持っているとすぐに打ち解けられるから素晴らしい。彼らに誘われるまま日帰りサイクリングに行く ことにした。 ベオグラードの道はとても狭く、お世辞にも自転車向きではなかった。
しかし近郊の丘は緑豊かでとても美しかった。そして静かなテレビ塔の小山の上へ螺旋を書いて登った。
彼らはみなとても友好的で驚くほど流暢な英語を話した。しかし旅の予定を聞かれ、ヨーロッパ横断後アメリカに行くというと、にわかに表情が硬くなった。

「私たちは他と違い、特別なんだ。」
「力があることを知っているから回りは僕らを潰そうとする。」
「20年前、今のお金で2、3000ユーロは誰もが毎月稼いだものさ。それが今じゃ1/10くらいなものさ。」
「わかるかいドイツ人とかと違って僕らはフレンドリーでみんなと一緒に楽しむことが好きなんだ。」

奇しくもテレビ塔は1999年のNATOによる空爆を受け、めちゃくちゃに破壊されていた。
「ここはセルビアのヒロシマみたいなものさ。好き勝手に爆撃してそれっきりさ。」

町は一見元通りで戦争の影など見られなかったが、それは確実に彼らの心を蝕んでいるようだった。

セルビアは特別で違うと言うけど、そうそう違う訳じゃない。トルコ人だってドイツ人だってみんな友好的でいい人たちだった。第一同じ人間じゃないか。」

私はそう言いたかったが、そうは言えなかった。そんなことは彼らだって分かり切っている。 分かり切っているのに寄ってたかって爆弾を落とされたから傷ついているのだ。差が無くとも標的にされたからこそ、小さな違いをアイデンティティーのよりどころにするしかな かったのだ。

▼クリスマスはどこへ

私はベオグラードでヨーロッパのクリスマスを堪能するはずだった。しかしそれを逃してしまった。私は確かに12月25日にベオグラードにいたのだが、様子がおかしかった。あまりにも平然としていたからだ。おかしいと思いつつ翌日町を歩くとまだクリスマスの飾り付けがしてある。ここは台湾か?(*)と突っ込みを入れたくなってしまったが、それは早とちりだった。セルビアは正教会なので1月7日がクリスマスだったのだ。 それにしてもタイミングが悪かった。セルビアでクリスマスを逃した後、ハンガリーに行ったらもうクリスマスは12月25日に済んだ後だった。

(*)台湾では多くのクリスマス飾りが旧正月まで放置される。

▼オペラを見る

東欧はオペラが安いと聞いていたがここまで安いとは思わなかった。

ベオグラードの国立劇場で見た「蝶々夫人」。最上階の立ち見席はなんと170円だった。これは物価の差を考え ても非常に安い。一食にもならない値段でオペラが見れるのだから。 イタリア語のオペラにはセルビア語の字幕が映し出されていた。いずれにしても私は理解できない。しかし言葉はなくともかなりのことは伝わる。これは旅で日々感じていることと全く変わらない。
長崎が舞台なので当然彼らも和服を着て出演していた。こう言っては申し訳ないが、その和服と身のこなしが、努力は認められつつもどことなく違っていておかしかった。とくに襟首をぴちっと体に密着させているのがとても不自然で笑ってしまった。

ハンガリーのブタペストでもオペラを見に行った。今度はワグナーのニーベルングの指輪だ。ここの方が遙かに大規模で大がかりなセットで演出され、楽しませてくれた。

▼苦手のクラシックにも挑戦

せっかく本場に来ているという事でブタペストではリスト音楽院の高いチケットを買ってバッハを聞きに行った。

しかし申し訳ないがやはり古典音楽は好きにはなれなかった。 何が苦手かというと合奏・合唱する時、各々の奏者が我を殺さなければならない所が耐えられない。聞いているだけで聞いている自分の個性までも押しつぶされそうな感覚に陥る 。全体の音を聞きながら自分の出す音が決して全体を乱さぬように細心の注意を払う。その緊張感が私には耐えられぬ不快感になってしまう。 しかし個が確立していると言われるヨーロッパで、ここまで個が押しつぶされた音楽が発展したとは不思議な事だ。宮廷や教会から発展したからそうなったのだろうか。

私には道ばたで小銭を稼ぐ路上音楽家の演奏の方がずっとずっと魅力的だ。そこには古典音楽の繊細さはなく、悪く言えばがさつかもしれないが奏者の心が100%表現されるから気持ちがいい。

▼沈没宿の秘密

ブタペストでは文字通り日本人旅行者のたまり場となっている宿に泊まった。たまにはこんなところでのんびりするのも悪くない。タイミングにも寄るだろうが雰囲気も悪くなく、個性的な旅人たちがそろっていた。 宿代は昼食付きで約6ユーロと格安。前代未聞の昼食サービスというのが宿主ヘレナさんの策略なのだが、その家庭料理がなかなかおいしいく、ちょっと寝坊して話をしているともう昼食が出てきてしまい、またもう一泊するという悪循環(?)を誘発する仕組みになってい た。

もう一つ沈没する理由は通称シェアメシという割り勘の自炊だ。たいてい宿泊者の中には一人二人料理の得意な人がいて完璧な日本食が2ユーロ程度で食べられる。こった料理もお手の物でカツ丼から豚の角煮、クリームシチューとかハンガリーにいることを忘れそうなメニューすらあった。

▼F500乗りに会う

ブタペストを走っていた私と全く同じキャノンデールF500というマウンテンバイクに乗っている人に会った。兄弟に会ったような気分だ。イギリス人のTさんだった。すぐに仲良く なると彼が町を案内してくれた。旅の途中何度もこうやって地元ライダーに町を案内してもらったことがあるが、最高に面白い。ガイドブックでは伝わらない裏話や最近の話題を 教えてもらえるからだ。 私はお礼に彼の自転車のサスペンションをメンテナンスした。同じ自転車なので私の持っている専用工具で問題なくグリスアップすることができた。お互いに「お安い御用」を出 しあってハッピーになれるのだから幸せだ。

▼それでも野宿は続く

ブタペストを出ると再度ドナウ沿いに走り、スロバキアの首都ブラチスラバへ向かった。 まだ雪は積もっていなかったが、木々の葉は全て落ち、森は枯れ葉でふかふかだった。ふかふかと書くと暖かそうだが実際には湿気ていてぐったりと重い。ともかくそんな森に入っては野宿を続けた。

ある晩、いつものように森の中で野宿していると足音が聞こえてきた。足音と言っても枯れ葉を漕ぎ分け、引きずるような音だった。
音は二方向から聞こえ、次第にテントに近づいてくる。ライトを消し、息をのむ私。
音はテントの回りをいぶかしがるように半周し、そしてまた大きな音を立てながら去っていった。
そしてそれは最後に本性を表した。

「ブヒブヒ」と鼻を鳴らして。

どうやらイノシシの夫婦だったらしい。しかしイノシシとて突っ込まれたらひとたまりもない。本当に何もなくて良かった。 翌朝テントの回りを見てみると二筋の漕ぎ跡が残っていた。

▼ペテルさん

スロバキアでは地元の筋金入りサイクリストのペテルさんにお会いすることができた。ヨーロッパ各地を自転車で何度と無く旅行し、2002年には日本まで走ってきた強者だ。 私の所属するJACC(日本アドベンチャーサイクリストクラブ)のメンバーとも各地で遭遇しており、その縁で私もお会いすることができた。

ペテルさんは町の公民館で去る夏に訪れたというアイスランドの展示をしていた。写真、パンフレット、自転車だけでなく、テントや調理用のストーブまでガラスケース入りで展示されていて面白かった。 このぺテルさんとは実は中国の天津でニアミスしていることも判明した。2002年11月17日、まったく同じ日に彼は天津を発ち韓国へ、私は日本から天津に入国していたのだ。どこか海の上ですれ違っていた計算だ。

▼「西」へ

スロバキアを出ると非常に小さな国境を渡し船で渡り、オーストリアに入国した。この国境は本来EU内の国籍を持つ者しか通過できない。そのせいかスロバキア側の審査官は僕が 入国できなかった場合に備えてか出国印を押してくれなかった。こんなことは初めてだったので不安を抱えてオーストリアの移民局に入ったが、審査官のお兄さんは、「大丈夫、大丈夫」と笑い、引き出しの奥からスタンプを引っぱり出してくれた。

いよいよユーロの通用する「西」だ。

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