■[報告]ヨーロッパへ(トルコからブルガリア)
□作成:2005年6月7日
□送信:アメリカ・ポートランド
2004年8月にトルコから一時帰国。その後、ブルガリアからヨーロッパに入った。
イスタンブールから日本に帰国後、母が亡くなった。二年前、中国走行中に癌が発覚し、 綱渡りの手術を乗り越えてがんばっていたが早くも逝ってしまった。
母は弱り切って文字通りの死線をさまよった後、亡くなる数日前に奇跡の回復を見せた。
ベットから起き上がるどころか何度も立っては歩き回り、私たちを驚かした。
単なる偶然とは思えぬような花火が病院の窓から見えた。そして思い出話にうなずいては何度も『楽しかった』と、繰り返した。
私はそれまで「成仏」という言葉を「残されたものがそう理解するもの」として理解していた。しかしそれは間違いだった。私が見たものは現実に仏に近づいていく、そのままの姿だった。
11月末にイスタンブールに戻り、前回の最終地点エスキシェヘルからイスタンブールを目指した。灼熱の大地は四ヶ月足らずで凍てる大地に様変わりしていた。しかしトルコの人たちの暖かい視線だけは変わらなかった。それにほっとし、キャンプをしながら走った。
途中タイルで有名な城塞都市イズニックへ寄った。小さな城塞都市は果てしなく続くオリーブ園に囲まれ、おとぎの国のように見えた。青々としていたオリーブは実りの時期を迎
え、濃い紫色になり、稲穂のように重くしなだれていた。
イズニックを出発し、ひと山越えて内浦を船で渡ると、私は一気に工業地帯に放り込まれた。果てしなく住宅や工場が続き、高速道路のような国道が続く。煤煙まみれになりながら走ると、そこはイスタンブールだった。
イスタンブールを出るとトルコ国内でありながらヨーロッパが始まっていた。人々の気質が微妙に変化したことに気づいた。ガソリンスタンドなどでキャンプの許可を求めても何かとはぐらかされることが多くなった。このような場合、無理を頼むことは絶対にしない
。「Welcome」で無いところで泊めてもらってもろくな事が無いからだ。
トルコでは相変わらず場所により犬が凶暴だった。犬が吠えかかり追っかけてくる様な場所も「Welcome」とは言えない。そう思って「welcome」な場所を探して走り続けるといつの間にか日が暮れてしまうこともあった。
小さな工場の玄関にキャンプさせてもらった事もあった。翌朝まだ暗いうちに女工さんたちがぞろぞろと出勤してきた。彼らは私のテントを見るとひそひそ話し合っては、くすくすと笑った。その声を聞いたらなんか恥ずかしくて外に出にくくなってしまった。
出発の時、お礼を言いに行ったらオーナー家族が朝食をごちそうしてくれた。そして改めて工場を見学させてくれた。
そこはなんとブラジャー工場だった。無数のけばけばしい色のブラジャーが次々と生産されていく。工員さんがJUKIという日本製のミシンを自慢げに見せてくれた。日本製が高品質の代名詞のように誇られているのを見るのは実にうれしい瞬間だ。
髭ずらのおじさんがうれしそうにブラジャーを一つ一つ手にとって見せてくれる。何も恥ずかしがることではない、でも思わず吹き出しそうになってしまった。お土産にひとつ持っていけと言われなかったのはラッキーだったかもしれない。
その後さらに息子さんが車でドライブにつれていってくれた。小さな名もないような町なのに教会跡やローマ劇場跡がある。それらをムスリムの彼らも誇りに思っているようでうれしかった。
エディルネで国境を越えるとそこはブルガリア。スラブ圏に入った。私は以前ロシア語をかじったことがあり、キリル文字が懐かしい。ブルガリア語はロシア語とは違うが、それでもけっこう似ていて親しみがわいた。
しかしレストランのメニューには苦労させられた。トルコなら全てオープンなので指さしで事が足りたがブルガリアでは文字と格闘しなければならなかった。そして解読に成功し、たとえば「ケバブ」であることがわかり、やっとの思いで注文してもトルコで言うケバ
ブとは違う物が出てくるのだった。
また、トルコならパンはかごに乗せられて食べ放題だったが、ブルガリアでは一枚いくらで注文しなければならなかった。これは胃拡張の自転車乗りには厳しかった。
成り行き任せの気まま旅に少しづつヨーロッパが浸透してくる。全ては完全だが計画的でなければならなくなってきた。
山間の修道院・バチコフスキーや芸術の町・プロブディブを見た後、私はカプリビシティッツァを訪れた。ここは伝統的家屋が至る所に残された日本で言うなら白川郷のような所だった。
完全なシーズンオフだったのに観光案内所のおばさんは代わる代わるに鍵を開け伝統家屋を案内してくれた。言葉は少なくともその親切が伝わりありがたい。
木材がふんだんに使われた家屋には暖かみがあった。細やかな装飾一つ一つが美しく愛らしい。冬の低い日差しは家の奥まで差し込んで、部屋を暖かい色に照らし出していた。
ブルガリアの首都ソフィアで着くと旅人向けの安宿に泊まった。最後の晩、ユーロで宿代 を支払おうとしたら釣りが無いという。そして、
「釣りがほしけりゃオーナーのところに行くんだね」
そう言われてムッとした。
客を使おうなんて社会主義時代の名残だろうか。そんな疑問を抱えつつも夕食を済ませ宿に戻ってみて驚いた。さっきの従業員がベットで寝て泣いている。そして僕を見つけるとこう罵り始めた。
「あんたのせいで私はクビになったのよ。最悪な夜ね。一体どうしてくれるの?」
しばらくすると若い女性オーナーがやって来た。そして従業員の女性とブルガリア語で言葉の殴り合いを行うと、彼女は真っ赤な顔で帰っていった。
聞けば客を使おうとして自ら働かなかったことを理由に従業員を即刻解雇したという。
どうやらこの人は以前から問題児であり、トラブルが多かったらしくいつか辞めさせようと思っていたところだったらしい。が、それにしても私の釣り銭問題を機に解雇が現実になるとは気分の良いものではなかった。
ブルガリアは想像以上に教育水準が高いようで、多くの人が流ちょうな英語を話した。前述の解雇されてしまった従業員ですら結構な英語を話す。そんな人を解雇してしまって良いのかと聞いてみたら「英語を話せる人なんてごまんといる。」という答えが返ってきた。社会主義時代の良い遺産で大学は充実しているそうだ。
しかし教育は受けても職がない。かといってトルコの人たちのように商売を始めたりはあまりしないようで、悪く言えば「愚痴をたれつつ酒を飲んでいる」といった状況らしい。
思い起こせばトルコは大変な上がり調子で国中に活気があふれていた。そしてEU加盟へ向 け、ヨーロッパたらんと誰もが歩んでいた。
それと比べてブルガリアの態度は対照的だった。
『歴史の巡りあわせでババを引ちまったけど私たちは「西」と変わらぬ誇り高きヨーロッ パ。EUに加盟すればうまく良く。だからそれまでの辛抱さ。』
そう言いながらただ加盟の日を待っているかのようであった。
首都ソフィアを出ると観光案内所で見つけた小観光地、ベログラドチックを訪れた。奇石が並び、カッパドキアを思い起こさせる様な場所だった。そしてその中心には「ルパン三世」に出てきそうなコミカルな城跡が残っていた。オスマントルコ時代の建造らしい。
ブルガリアでは至る所でオスマントルコ時代の影を感じた。そしてそれが人々の精神に今なお影を落とし、またヨーロッパ人としての誇りを屈折しながらはぐくんでいるように見受けられた。
オスマントルコに加え、社会主義時代の影が残るブルガリア。しかしそれでも私はこの国が好きになった。
なぜかもともとスラブ系の文化に親近感を抱いていることもあったと思う。しかしそれ以上に、時代に翻弄されるのではなく、はやり廃りを超越したような息の長い伝統がこの国
では感じられたからではないかと思う。