■[報告]イラン1
□2004年9月7日
□日本・長野県
パキスタンのクエッタを出発し、時に砂嵐と格闘しながら8日かけてイランへ入国。その後は強盗団の出没地帯を突破して地震で滅茶苦茶に壊れたバムへ行った。
クエッタから西の区間は果てしなく砂漠が続く道であると旅行者から恐れられていた。道が長く、悪いというのが評判で、過去には世界三大悪路とすら言われていたそうだ。
結論から言ってこの評判はあまり正しくなかった。道が悪かったのは以前の話で、現在は全行程が舗装されていた。人々は所々に住んでおり、未開の荒野というほどでもなかった。
治安についても結果的に問題は無かった。パキスタンの人々はどこも同じように親切でフレンドリーだった。バルチスタンの人はガラが悪いという噂も正しいとは思えなかった。宿泊に困ることもなかった。初対面ですぐその人にお世話になれるくらい皆が皆優しかった。軍や警察も例外でなく、部屋を提供してくれたり、チャイに始まり、食事、スイカ、コーラと何でも次々に出してくれるのだった。少しビビってはいたけれど結果的にこのルートは冒険コースでも何でもなかった。誰だって走れるただの幹線路だ。難易度で言ったらオーストラリアの砂漠の方が格段に上かもしれない。
「ただの幹線路」と言ってしまったが、これには一つだけ条件を付けても良いだろう。それは砂嵐に遭遇しないと言う事だ。ダルバンディンを出た日は劇的だった。スルマックまでの60km、素晴らしい追い風だった。この間たったの2時間半。飛ぶように走りきった。
異変は劇的にやってきた。スルマックを10kmほど過ぎたころ、急に風向きが変わった。平均時速35km近くで走っていたのが、急に15kmに落ちた。そして砂が舞い始めた。砂嵐とは言っても、実際には地吹雪に近かった。ただ猛烈な風が地面の砂をまき上げ、音を立てて流れていく。路面はまさにレースのカーテンの様で、砂の幕がさらさらとゆらめいた。
面白がって写真を撮っているうちは楽しかったが、次第に現実の厳しさを思い知らされた。細かい砂粒は体の露出したわずかな部分に容赦なくたたき込んでくる。上下ともロングスリーブを着ていたが、ハンドルを握る手がパチパチ痛くなった。そして首筋やほほにも痛みが走った。その後顔も極力布で覆うようにしたが、それでもわずかな隙間をぬけ、砂は目に入ってきた。
これではキャンプするにしても地獄だ。なんとか人のいる建物に入れさせてもらうのが得策に違いない。幸い軍の駐屯地が見つかり、入れさせてもらうことができた。彼らは怪しい異邦人に対し手放しで歓迎してくれた。厳しい自然環境にある方が人は優しくなれるものらい。
翌日も風は止まなかった。ほぼ真北から猛烈な風が吹きすさんでいた。南極のブリザードみたいな風景だ。
朝食後、引き留める彼らを振りきって根性で出発した。建物から道路までの数十メートルが信じられないくらい長く感じられた。北風をもろに受け、自転車をかろうじて押して進むのがやっとだ。話に聞くパタゴニアの強風はこんなものではあるまい、ここでくじけるものかと車道まで押し切った。でも、やっぱり無謀すぎたかもしれない。あまりの強風に途方に暮れた。
車道に出ると今度は真横の風になった。これが幸いして思ったよりは進むことができた。しかし横風だからと甘くは見れなかった。時々突風で倒されそうになるからである。幸い交通量が少なかったので、右側車線の右端を走った。(パキスタンは左側通行) トライアルで鍛えたバランス感覚を武器に耐えながら進む。しかしそれでも少しづつ風下に流され、時に左車線にまでずれ込むことがあった。
砂粒攻撃も激しかった。鼠小僧作戦では目に砂粒が当たり痛かった。そこで最後には頭を照る照る坊主のように布ですっぽり覆う作戦にした。のっぺらぼうだが外は明るいので、おぼろげながら見え、走ることができた。
ノックンディまで約60km。7時間近くかけ、必死の思いで走りきった。これほどきつい風は初めての経験だった。なるほどここは地の果てかもしれない。
翌日は打って変わって快晴。なんだか無理してあの砂嵐の中走らなくてもよかったかもしれないと少し後悔した。ともかく晴れれば多少風がきつくても楽しむことができる。天気が及ぼす心への影響は想像以上に大きい。向かい風を受けつつも楽しく走ることができた。そして翌5月1日、私はようやくイラン入国を果たした。
国境を越えるやいなや道路が良くなった。滑るように自転車が進む。自転車とはこんなに楽に走れる物だったのか。当たり前だったことに愕然とさせられた。
しかし心はさほど晴れなかった。不幸なことにイランの前評判はあまり良いものでなかったし、まだまだ砂漠行路が残っていたからだ。しかもザーヘダーン近辺はアフガニスタンに近く、武装強盗団すら出没するという話だった。さらに驚くべきことに、たった4ヶ月前、ヨーロッパのサイクリストが3人も誘拐される事件まで起きていた。
事件が発生したのは2003年の12月。それは人事でない時期だった。もし肝炎に罹っていなかったら、あるいはその後に旅を続けていたらそれは私だったかもしれない。しかも2003年12月と言えば、バムで大地震があった月でもある。こちらも人事ではない。もしバムにいたら下敷きになって命は無かったかもしれない。肝炎くらいで私はとてもラッキーだっのだ。
イランの第一印象は少し不親切な国だった。国境の町で宿を探したのになかなか皆、親身には助けてくれない。ただ外国人を見て面白がっていたり、乗り合いタクシーの客と勘違いして声を掛けて来るばかりだった。そして夕食に食べたケバブのまずかったこと。これがうわさに聞く「ケバブ」かとがっかりしてしまった。野菜もなく、冷えた紙みたいなナンを出された時もよほど文句を言おうかと思った。パキスタンでは必ず焼きたてのナンが出てきていたからだ。イランではこれが普通だったのだが、国境を越えたばかりの私には彼らの怠慢としか思えなかった。
ザーヘダーンからバムまでの330kmは武装強盗団で知られていた。ここはアフガニスタンに近いため、麻薬の密輸が横行しているそうだ。しかも最近サイクリストが誘拐されたとなれば正に人事ではない。さすがにここだけはバスに乗ることも検討する。たくさんのサイクリストが無事通過しているのも事実だが、人質にとられた人がいるのも事実なのだから。しかし私は結局走ってみることにした。
なお、私は念のため警察に行き、その後旅行代理店を通じ、警察や観光協会にレターを出してもらった。
はっきり言ってしまえばそんなレターに有効な効力があるとは思えない。しかし万が一を考えるとこのような手順をとっていたかには差が生じる。責任の押しつけあいみたいで嫌だが、できることはしておくのが賢明だ。代理店の人の話では誘拐なんてまずあり得ないそうだ。10年に一度あるか無いかの珍事件で、それを言ったらどこの国でも同じ事じゃないかと笑われた。
この意見はさすがに楽観的過ぎると思うが、少なくとも「地元の人が危険と言うところには行かない」という鉄則を破ることにはならなそうだ。細心の注意をしながら挑戦することにした。
私はリスクを最小にするため、最大限早朝に走ることにした。遅くても朝6時には出発し、昼過ぎにはその日の行程を終える。そもそも誘拐なんて計画的なものだろうから対策の立てようなんてなさそうだけど、せめてできることはしておこう。そして、次の方が重要だが、許可を得た上で人の目に付くところでキャンプすることにした。
これは危険地帯に限らないことだが、無人の広野の野宿には確率は低くても大きなリスクがある。だから面倒でも許可を得た上で誰かの管理下にある土地にキャンプさせてもらおう。
初日はブラックマウンテンというなにやら物ものしい名前の山をすり抜け、ノスラットアバッドという村の先のチェックポイントへ向かった。途中数匹の野犬に追われた。奴らは縄張りがはっきりしているらしく、しかも隣のなわばりの犬と連絡しあってパトロールしているようだった。強盗団より犬の方が差し迫った恐怖だ。
チェックポイントではモスクの中に泊まっても良いという許可を得ることができた。しかしどうも人がお祈りするところに泊まるというのは落ち着きが悪い。結局外にテントを張った。さすがにチェックポイントの前で誘拐されることはあるまい。
二日目は峠を下ってから本格的な不毛の大地を進んだ。一カ所だけ水と菓子などを買える売店が見つかったが、それ以外は何一つ無かった。不安がつのってペースをあげた分、ばててしまい、後半が大変だった。最後はスルガズという場所で軍のキャンプに泊めさせてもらった。駐屯の兵士は徴兵中の若者だった。こんな砂漠の真ん中ではやることもないらしく、一日中ピンポンをして時をつぶしているようだった。こちらも砂漠並に不毛である。でもそんな彼らのおかげで私は安全な場所に寝ることができたのだから感謝しなければならない。一見無意味なようなことでも隠れた役割は必ず潜んでいる物なのかもしれない。
最終日には幸運な追い風に乗り、快晴の中無事バムまで走りきることができた。
地震で壊滅的な被害を被ったバムへ行った。状況は想像を絶していた。ほとんどの家々が崩れ去り、瓦礫の山が続いていた。そして人々は未だにキャンプ生活をしており、あるいは煉瓦をひとつひとつ片づけていた。とても地震から4ヶ月以上経っているとは思えなかった。つい数日前に地震があったかのような荒れようだった。
それでも3泊してみて次第に見えてきたこともある。一見手つかずに見えても、イランなりのペースで再建、復興への歩みが進んでいたことだ。とりあえず電気と水道が復旧しただけでも大変な作業だったに違いない。もっとも当のイラン人にとってもペースは遅すぎであり、政府への不満をぶちまける人も多かったわけで、間違ってもほめられた状態ではなかった。
しかしいずれにせよバムでの滞在を通し私が最終的に感じたことは、厳しいことを言うようだがあまりにも地震に対して脆弱な建物を建て続けていた政府、あるいは彼らの責任の方だった。
天災だから仕方がない。そんな諦観ばかりが目立った。もちろん不幸な出来事には違いないし、避けられない被害があることも認める。しかしここがもし日本だったら、大したニュースにすらならなかったのではないだろうか。
事実、少ないながら全壊を免れているビルがいくつも残っていた。もちろんそれとて建て直さないと使えないくらいの被害は受けていた。しかし建物の外観が残っているという事は、下敷きになって人が死なずにすんだと言うことである。たとえばバムにあった五つ星の高級ホテルなどはほとんど無傷だった。多少ガラスが割れた程度なのだ。つまりきちんとお金をかけてきちんと建設していれば被害は防げたのである。
その後イランで建築現場がある度に見学させてもらっているが、それは驚くほど手抜きのハリボテ建築である。鉄骨で骨組みを作っているとは言っても鉄骨間の溶接が素人目にもお粗末すぎる。形だけ外れないようにつないでいる程度だ。そしてその弱々しい鉄骨を土台に重い煉瓦がセメントだけで接着され、床や壁を形作る。せめて鉄筋が入れば壊滅的な被害は軽減できそうだが、そんな作業は見ることができなかった。ハンマーでポンとひとたたきすれば全て壊れそうな位なのだ。
バムでひとつ驚いた事がある。事の成り行きで半日ほど解体作業を手伝う機会があったのだが、その際鉄骨を除去することになった。その時、労働者の一人が溶接部分を巨大ハンマーでたたき始めたのである。溶接をハンマーでたたき壊そうなんて馬鹿げた発想が良くできるものだ、そう思ってあきれてはてたのだが、やってみるとなんとそれが壊れたのだった。
たたいただけでもげるような溶接技術。残念ながらこれがイランの現実であり、バムが全壊した原因である。
聞いてみればイランは地震に満ちている。バムから近いケルマンやその近郊でも何度と無く地震が町をおそっている。私のイラン滞在中にもテヘラン近郊で地震があり、35名以上が亡くなっている。地震があるたびに人々は自分の町が被害に遭わなかったことをただ喜んでみているのだろうか。
もちろん予算の都合で丈夫な建物を建れないのはわかる。でもここまで脆弱な建物では地震で助かる見込みがない。最大限政府が援助するなり対策を講じなければ悲劇は何度でも繰り返されるだろう。
バムでは人口の約半分の方が亡くなったそうだ。テヘランの人口は650万人ある。