■[報告]第二次パキスタン2(トライバルエリアを越えて)
□送信日:2004年6月27日
□送信地:トルコ・ワン
▼概要
灼熱のパンジャブ州を抜けた私は、高原のバルチスタン州に入った。トライバルエリアは意外とすんなり通過できるかのように見えたが。
▼トライバルエリアへ
高原のヒルステーション(*)・フォートムンロで一休みすると私はトライバルエリアを走り、クエッタへ向かった。ここは低地のパンジャブ州と違いバルーチ族・パターン族(パシュトゥーン人)などいくつかの民族が雑居する地帯。イギリスの植民地時代にも完全な征圧は行われず、当時は「盗賊の道」などと呼ばれていたルートだ。しかし現在ではそんなことは無く、警察を含めて誰に聞いても日中は全く問題ないと言う話だった。道は部分的に未舗装で起伏があった。そして西からの風が行く手を阻むようだった。しかしいずれにしてもあの酷暑から解放されたのがうれしかった。日中は30℃を越えるが、体温を越えなければ何とかなる。それに朝夕気温が下がるのがありがたかった。気温が下がれば食欲が増す。それこそが全てだ。
人々もとても親切だった。ラキニでは宿に入ったのに何か様子が変で、よくよく確認したらそれは宿ではなく、病院だった。あまり病院には泊まりたくなかったのだが、話しているうちに彼らは一階の院長室をあてがってくれたのだった。休日だから問題ないという。
ここまでしてもらうと断る理由はなかった。
▼パキスタン人のホスピタリティー
パキスタンの人たちは本当に親切でやさしかった。しかも紳士的で押しつけがましくなかった。こんなに絵に描いたような「いい人」たちに会うのはアフリカのスーダン以来かもしれない。もちろんどんなところにもいい人もいれば悪い人もいる。そして言うまでもなく良い悪いで二元化できるはずもない。それにしてもパキスタンの人たちの優しさは特筆に値するものだった。
たとえばドライブインで牛乳を買おうとしていたら食事中のドライバーにごちそうになったことがあった。こんな時は遠慮しないのが良い。ありがたく食べさせてもらった。ところが彼らは私が「買った」はずの牛乳代まで払ってくれたのだった。旅人に親切にすることはイスラムの教えであり、ムスリムにとって義務みたいなもの、なのだそうだが、ここまでしてもらうと驚いてしまう。逆の立場で私たちは見ず知らずの外国人に食事をおごるようなことはしないだろう。
恩きせがましくないところも日本人の私にはとても格好良く見えた。丁寧にお礼を言っても、むすっとして何でもないような顔をする。
店やレストランもほとんどがとても正直で、外国人の私からぼったくろうとすることはまず無かった。また、誰かが払ってくれたときに二重払いを企てたりする人もいなかった。
▼義務ゆえの親切か
パキスタンで、ある日本人旅行者がこんな事を言っていた。
「ムスリムの国を長く旅するうちに、彼らの親切が実は建前だったり、コーランの教えだから義務的にやっているだけに見えてきた。」
彼の説には身に覚えがあった。デラワラフォートに行った帰り、私はヒッチハイクの車を探していた。幸い都合良く車が通り、乗せてもらったものの、彼は私が帰るつもりの場所までは行かないと言う話だった。ところが彼はむっつりとしながらも親切に私の泊まっている宿まで送ってくれたのだった。その顔つきは明らかにめんどくさそうだった。しかし、その親切によって私は大いに助けられている。
もしかすると日本人は形にこだわる割に「気持ち」を重視している人々なのかもしれない。パキスタンで旅をしていたら、気持ちより「実質」が切実だった。全てがプリミティブといったら良いだろうか。口先だけのやさしさでは喉の乾きはいやされないのだ。
▼メクタールで
ラキニ・メクタール間はダートと向かい風で楽でない道のりだった。そしてやっとの思いでメクタール前の峠まで走ると、なぜか警察にストップをかけられてしまった。自転車では走るなと言う。幸いその時はたまたま通りかかった親切な英語使いのドライバーさんが警察を説得してくれ、そのおかげでメクタールまでは走らせてもらえたが、その先へ進むことは許可されなかった。
メクタールでは警察署の中庭にキャンプさせてもらった。100km以上走り、全身がくたくただったが、ここが肝だ。警察官の人たちと仲良く会話を交わし、写真を撮ったりしながら、さりげなく、いやしつこいくらいに自分が日本から自転車ではるばるやってきて、全行程走破が目的なのだと語った。このような国で自転車で走りたいと説明してもなかなか理解してもらえないことが多い。「何を言っているんだ、車に乗って行けよ」と親切でそう言われてしまうとその親切を断るのは非常につらい。だからこそ熱意をわかってもらうより仕方ない。「自転車じゃないと意味がないんだ」、私はしつこくしつこく強調した。
熱意は何人かの警官に通じ、自転車で走れるように計らってくれると確認をもらった。しかし最終的に彼らの権限ではどうにもならず、メクタール長の判断にゆだねられる事になった。
残念ながら結果は散々だった。翌朝メクタール長の役人と会ってみると、彼ははふんぞり返っでテレビばかり見ているような男で、全く聞く耳を持っていなかった。こちらの話を聞いてもらおうと作り笑顔で話しかけたが、無駄だった。正攻法ではこれが限界か。私はあきらめざるを得なかった。
ミニバスに自転車ごと乗ると、銃を持った「護衛」が二人付き、私はローラライまで移動させられた。この間80km。走りたいのに走れない、涙の80kmだった。
▼ローラライにて
ローラライでは今度はさらにクエッタまでバスに乗るように言い渡された。それはできない相談だ。私は自分にとって自転車で走ることがいかに重要で必要不可欠であるかを再三強調した。私は「メクタールに再度戻って、もう一度この行程を走りたい。」
そう主張した。そして護衛が必要ならその費用を自己負担することも伝え、許可を求めた。
彼らの話では約一ヶ月前にメクタール・ローラライ間でバスが襲撃され、パキスタン人12名が人質に取られたという事だった。後にジアラット周辺で人質は無事解放されたものの犯人は逃亡し、この一帯にまだ潜んでいるという事だった。彼らの目的は犯罪組織(アルカイダとは無関係)のすでに拘束されている仲間の解放であり、外国人は格好の標的になりかねない言う話だった。折しもイラクで日本人が人質にとられたご時世、確かに万一を考えると護衛なしというのも危険かもしれないと思った。
「この事件さえなければあなたは自由に走ってもらえるんですよ」
その言葉に嘘はなさそうだった。でも、「外国人の自転車と歩きは許可しないように命令が出ている」という言葉はちょっと信じられなかった。そんな希少な人を対象にしたような通達がすでに出されていたなんていかに信じようか。いずれにしても彼らも事なかれ主義で神経質になっているのは確かのようだった。
結局2,3時間役所で粘り、また明日来ると伝え、簡単にはあきらめないことを強調すると、幸運なことにローラライ地区長にあわせてもらうことができた。地区長の人は意外と物わかりがよく、わがままな外国人に苦笑しながら
「誘拐される準備は整ったかい?」
とジョークを飛ばしてくれた。
こうなれはもう許可されたようなものだ
「是非メクタールまで戻って走り直したいのですが。」
さらにそう切り込んだ。
結局メクタールまで戻る案は一笑され許可されなかったが、クエッタまでは護衛をつけてくれることになった。正攻法ではここまでだろう。空白区間が残って非常に残念ではあったが、それでも再び走れることはうれしかった。彼らの計らいに感謝しよう。
▼護衛付きのサイクリング
たまには護衛と一緒に走るのも悪くなかった。どんなに安全なところでも一人っきりにはどこか不安や緊張感がある。それらから解放されると、見えてくる風景もまた違って見えた。休憩の時には言葉が通じないなりに話し相手ができる。ビスケットや果物を分け合って食べると自然と親近感が増してくる。
彼らは仕事であってもとても親身だった。頼みもしないのにさりげなく走行中にオレンジを差し入れてくれたりするのだ。こうなると護衛と言うよりはサポートと言った方が良いい。
タクシー護衛団は半日で終了し、私はチェックポイントで一泊させてもらった。ここでの一泊も思い出深い。BLF(バルチスタンレービスフォース)の人たちはいい人ばかりだった。
小さなチェックポイントなのに結構ぞろぞろと人がいる。もっとも警察にあたるような機関なのに昼間から平気でハシシ(※)をふかし始めたときは驚いたけど。アルコールに関しては比較的厳しいが、ハシシはかなり許容されているようだった。
彼らの一人がポストの周辺を案内してくれた。深い井戸や、大きな陸亀。砂漠に生きる可憐な草花。普段自転車で見過ごしがちなものが見れてとても楽しかった。
さらに彼らはわざわざチキンを一羽買ってきて、絞めた上、ごちそうしてくれた。水でぐつぐつと煮込んだチキンだが、なんとゆで汁は料理に使わず直接飲んでしまうのだった。
いずれにしても客人の私を最優先にもてなしてくれる。そんな心配りがうれしかった。 夕方には銃の自慢が始まった。そして彼らは近くの石を標的に遊び撃ちを始めた。そして最後に「おまえもやって見ろ。」と銃を渡された。カラシニコフはどっしりとして重かった。撃った時の反動は大したことがなかったが、音が大きく、耳鳴りがなかなか止まらなかった。
一発の弾薬の価格は10ルピー程度だそうだ。この国でコーラ一本の価格に等しい。これではなかなか紛争が収まらないわけだ。 「刀狩りが紛争解決の最善かつ最高の方法である。」
これは地域紛争の耐えないアフリカを旅した後に私が至ったシンプルな結論だ。紛争が絶えず人が犠牲になり続ける原因は部族抗争や宗教紛争だけに原因があるわけではない。そこに安い武器が転がっているからだ。裏で武器を双方に流し、それを通じてもうけている連中が紛争を必要としているからである。せめてもし弾薬一発が1000ルピーだったら安易に使われずにすむのに。そう思った。
(*)ヒルステーション:英国の植民地時代に整備された避暑地。現在でも多くが小金持ちの避暑地である。
(※)ハシシ:大麻樹脂。パキスタンでも一応違法。紙巻きたばこを一旦ばらし、染み込ませてから葉を戻して吸う。
▼クエッタへ
さすがにローラライ地区長の一声には威力があり、私は3日間しっかりと護衛をつけてもらい、安全に走行することができた。彼らは自転車で走り続ける奇妙な外国人に対して、返す返すも非常に親身で親切だった。途中何度お茶・お菓子・食事を出してもらったかわからない。
彼らには良くも悪くも公私がなかった。仕事でもいやいややっているのではなく、珍しい客を案内することに楽しみを感じているようだった。実際頼みもしないのに自宅や建設中のダムへ案内してくれたり、最大限尽くしてくれた。
3日間の護衛区間を経て、カーノザイに到着すると、ようやく私は一人に戻り、残った行程を走りきった。最後の区間はアフガニスタンが近いせいか難民も多く、人々は少しピリピリしているようだった。外国人を見て石を投げつけたりパチンコで飛ばしてくる子供もいた。彼らの多くはさして悪気もなく、時にこちらの気を引きたくてそんな事をする。しかし幸か不幸か彼らの投石技術は大変なもので、結構命中するから油断ならない。こんな時はなるべく目を離さず、話しかけることだ。彼らも面と向かっては投げにくいからだ。
▼その先の砂漠へ
クエッタではしばらく休息をとり、資料の整理や情報収集を行った。幸いイランから全行程を走ってきたオランダ人サイクリストと知り合い、生の情報を得ることができた。まだ二十歳にも満たない彼は砂漠や強盗団よりお金の心配をしており、インドまでいくらかかるかばかり私に聞くのだった。こういう人たちにはかなわない。ともかく、少なくともパキスタン側は問題ないだろうと言う話に挑戦する意欲がわいてきた。
結局クエッタには8泊し、いよいよ長い砂漠公路へと進んだ。
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