■[報告]第二次パキスタン1(再出発)
□2004年6月13日
□イラン・ハマダーン
▼概要
一時帰国から5ヶ月後。私はパキスタン航空の片道切符でパキスタンの首都、イスラマバードへ入国した。その後足慣らしにラホールまで走行し、前回最終地のバハワルプールへ移動。ここから本格的なサイクリングを開始した。そしてトライバルエリアを通過してクエッタへ向かった。
▼再出発
「また出発するの?」そう聞かれたときもあったが、今回ここで旅を終了する気はさらさらない。確かに気は重かった。肝炎は治っても体力的にやっていけるかはまだわからなかったし、パキスタンでは危険と言われるシンド州とかトライバルエリア、そしてバルチスタン砂漠の横断も残っていたからだ。クエッタの先はアフガニスタンにも近く、外務省の情報では国境から100km圏内には近づくな、と言われていた。国道はもちろん100km圏内にある。さらにイラン側もアフガニスタン近辺は危険という情報だった。こんなネガティブな情報ばかりではさすがに旅立てる喜びも押しつぶされそうだ。しかし多くのサイクリストが問題なく通過していることも事実である。出発しないと言う選択肢はない。この山を越えなければ世界一周はできない。もちろん本当に危険なら部分的にバスに乗ることも考えられる。しかしその決定は行って状況をよく調べてからだ。行きもしないであきらめるのは情けなさ過ぎる。パキスタンまで走ってきた意地もある。
▼準備期間のばたばた
出発前はとかく忙しいものだが、今回はまた複雑な忙しさがあった。以前紹介した日本サイクリングナビゲーター(A href="http://japancycling.org/"
target="_blank">http://japancycling.org/)の作業が残っていたからだ。軽い気持ちでWebサイトのリニューアルを引き受けたのだが、更新後結構な反響があり手抜きできない状況になっていた。そして目玉商品の「Scenic
Byways」というコースガイドを作成する事になり、その作業がまた一筋縄では行かなかった。ページのデザインや、地図の作成のみを担当したのだが、それだけでも何日もかかった。特に6年前のMacや借り物のWin98ではなおさらだ。旅を終えたら新品を買うんだと自分を励ましながら作業を行った。
海外からもっともっとサイクリストを呼びたい。そしていつか日本がサイクリングに適した国と思われ、気楽に来てもらえるようになったらと思う。ここまで3万キロ以上アジア各国を走ってきたが、日本のような国は見あたらなかった。深い山と緑。自然と共生した林。長い歴史と独自の文化。特に高品質な木造建築。こんな国がただ「高い」と言われて敬遠されているのがとても悔しいのだ。▼弱々しい出発
出発はとても弱々しかった。疲れが出て不安ばかりが募った。東京の実家を出て、池袋まで走る。迷惑そうな顔をされながら、リムジンバスに乗る。リムジンは高いが、自転車を分解せずに乗せてくれるので便利だ。そして成田でチェックイン。ここでも自転車は分解しない。そのまま手渡す。国際線なら、この方法で断られたことはまだ一度もない。安全かつ最も簡単な方法だ。
それにしても体調がすぐれなかった。リムジンバスでも寝っぱなしだったし、飛行機が離陸してからも全身の疲れに自信を失った。よほど北京で降りて日本に戻ろうかと思ったほどだ。しかし思い起こせば初めて海外に行ったときはもっと不安だった。11年前、お腹を痛くしながら乗ったナイロビ行きの飛行機。あれも今回と同じパキスタン航空だったっけ。
ラワルピンディーについてもなかなか元気が出なかった。出発早々こんなにふらふらしているのは初めてでとても不本意だったが、体が動かなかった。少し動いただけで翌日まる一日寝込むくらいだった。さらに症状が肝炎っぽく、とても不安にさせられた。
ラワルピンディーに3泊し、たった17km走り首都イスラマバードのキャンプ場に移動した。
しかしどうしたものか、移動の翌日すんなりと起きれなかった。あまりにも不安になったので、病院へ行き血液検査だけ行った。肝機能がどうなっているかだけ調べておきたかったからだ。
幸い肝機能は全く正常だった。ただの疲れと時差ボケだ。そう確信したら少しづつ気力がわいてきた。出発の時だ。ラホールまでは今回の旅の試走になる。いつもの半分の距離であっても少しずつ走り、進んでみよう。そう決心した。▼ラホールへ
ラホールまでの道は楽しかった。弱々しい走りなから、下り傾向の幹線路は快適だった。
私は一日60〜70kmというペースで疲れを出さぬよう最大限注意しながら走った。
走り出してみると、こうしてまた走れていることが底抜けにうれしかった。きっと自転車が、自転車で走ることが誰よりも好きなのだろう。風を切り、風景が心地よい速さで流れていく。フレンドリーなパキスタンの人たちとすれ違うとき、声を掛け合い、手を振りあう。いままで当たり前のようにしてきたことをもう一度実感し、幸せを感じた。
自転車の旅ってすばらしい。そこには自由がある。好きなところで止まり、好きな道を自由に走ることができる。行きたい場所があれば行きたいようにハンドルを切ればいい。
途中で寄ったロータスフォートも良かった。かなり崩壊が進んでいたが、下手に修復されたものより自然な美しさがあった。高台からの眺めも最高で、のんびりと水牛を遊ばせている人たちがよく見えた。
五日間で約350kmを走り、4月1日にラホール着。この喜びがエイプリルフールで嘘だったりしないようにと願いながらなじみの宿、RPIのベルを鳴らした。▼本格走行開始
ラホールでの短い休息の後、私は鉄道でバハワルプールへ向かった。バハワルプールは前回の最終到着地点だ。悔しい思いが残っているだけに、同じ場所から旅を再開したかった。
前回と同じ宿に泊まると部屋まで同じだった。ベットに横たわってみると、もうろうとして見続けた天井がまた違って見える。バスルームはこんなに広かったのか、などと様々な発見があった。同じものでもその時々で違うように見える。まして人が違えばそれぞれ印象が違うのも当然だろう。そんなことを考えた。
バハワルプールは暑かった。とても日中出歩くような気分にならなかった。これからは早朝にシフトしてサイクリングする必要がありそうだ。
4月6日、私はついに旅を再開した。まだ薄暗い町を出て、細い幹線路を走りはじめた。無事ヨーロッパまで走り切れるだろうか。とても不安だ。しかし走りきれたらどんなに素晴らしい事だろうか。まさに輝ける未来のようだ。そう思いながら自らを励ました。がんばろう。がんばって走りきってやろう。
気持ちの浮き沈みが胸の中に渦巻いていた。しかしそんな気持ちを知ってか知らぬか自転車は風を切りながら進んでいく。デジタル化されない現実感覚がまた自転車の魅力だと思う。不安も期待もなしにタイヤは回り、風景は流れていく。そして少しづつヨーロッパは近づいてくるのだ。
▼北ルートを選択
予定ではバハワルプールから南西にインダス川沿いに走り、モヘンジョダロを見てからクエッタに北上するつもりだった。しかし問題は暑さとモヘンジョダロを含むシンド州の治安状況だった。フレンドリーで紳士的なパキスタン人を見ていると、この先治安が悪くなるなんて想像できなかったが、やはり行ったことのある人に聞くとあまり治安は良くないらしかった。そして酷暑が想像以上にきつかった。毎日5時に起き、日の出前に走り出すようにしていたが、それでも10時を過ぎると暑くて楽しく走れる状況ではなかった。日中は軽く40℃を越える。それでも何度か酷暑の中走ってみたが、後が散々だった。なだれ込むように入った売店でコーラを流し込むと、次第に意識がもうろうとしていく。小一時間うたた寝してみてもまた走り出す気にならない。日がオレンジ色に色を変え、影が長くなった頃、ようやく意識が戻ってくるが、今度はもう時間がない。太陽はすとんと地面に吸い込まれていく。
そんなわけで日中、そして夕方走るのも早々にあきらめ、午前中に50〜60km走ってから11時には宿にチェックインするような走り方になってしまった。毎日これではいくらも進まない。
さらに日中宿にこもる事すら楽ではなかった。冷たいシャワーを浴びたくても、蛇口から出るのは熱湯のように熱いお湯だけだった。気化熱に期待して部屋の地面にバケツで水をまく。しかしそれとて30分とかからずにカラカラに蒸発してしまうのだった。
結局私がとった選択肢はルートを変更してクエッタに直行することだった。山間部のため距離的には大差がないが、標高が高くなる分、涼しくなるはずだからだ。幸い数年前に同じルートを走ったサイクリストによる細かい情報があり、治安的にも問題はなさそうだった。もう暑いのはいやだ。
▼DGKhanの秘密
ルートを北寄りにとり、低地最後の町・デラガシカーンへ向かった。ところがいつものように昼前に宿探しをしてみて異変に気づいた。どこの宿も満室なのだ。はじめは結婚式か大きな会議でもあるのかと思ったが、実はそれは体の良い断り方でしかなかった。どうやら外国人は泊めない約束になっているらしい。よくよく頼んだら警察からのパーミットをもらってこいと言う。こんなことでパーミットをもらいに行ったら「やぶ蛇」になることは目に見えていたが、私は警察に行ってみることにした。この問題がデラガシカーン特有のものなのか、あるいはクエッタまで続く問題かどうかを確かめたかったからだ。
警察へ言ってみると、案の定パーミットはもらえず、この町から出るように言い渡された。その理由を聞くと以下のような事件があったという話だった。
数年前、米国籍を持つパキスタン人がパキスタンの協力のもと米国によって捕らえられ、連れ去られた。そして最終的に米国で死刑に処せられた。その舞台がこの町の宿だったため、以後外国人の宿泊は一切受け付けなくなったのだという。
幸いこの規則はこの町のみの規則であり、30km離れた町境を越えればどこで泊まろうが野宿しようが構わないと言うことだった。30kmなら今日中に走れそうだったし、規則が町の外には及ばないと聞き、私は一安心して警察署を出発した。
警察はエスコートと称して私を追跡したが、町外れで意外とあっさり私を解放してくれた。必要以上に干渉もされないのは助かる。ほっとしてのんびりと旅を続けることができた。
しかし話はこれで終わらなかった。暑さを避けた3時間強の長い昼休みを終え、午後の日差しの中走り出してみると程なくパトカーが私を見つけ、勝手にエスコートを再開しまった。どうやら昼中僕を探していたらしい。無線でなにやら連絡しあっては私を監視し続けたのだった。
デラガシカーン町境の町、シャクシャワルを越えてからもエスコートと称した監視は続いた。私としては疲れ切っていてすぐにでもテントを張りたかったが、町境の橋を渡った後も先へ進むように言われてしまった。彼らは1km先に警察のキャンプがあるからそこで泊まるようにと言う。ここで文面通り信じるほど僕は無防備ではない。「本当に1kmか」と何度も聞き返したらしふしぶと「5kmかな」なんて彼は苦笑いした。
パキスタンで距離を聞いても決して信じてはいけない。1kmと言われたら「近く」くらいの意味しかない。で、問題は彼らにとって「近く」がどのくらいの距離かである。経験的にそれは3〜5kmくらいであった。
しかしこの日の彼らの甘言には明らかに私をはめようとしたふしがあった。なにしろ「1km」は「5km」で、「5km」は実際15kmだったのだから。もう勘弁してほしい。
この日ほどつらかった行程は無かったかもしれない。いつ着くわからぬまま高原への坂道を上っていく。交替した護衛はオートバイ一台で、疲れ切った私を無遠慮に急かす。私の心臓はバクバクと高鳴り、破裂しそうだった。そのうち日は暮れて闇の中、ライトをつけて進む。このまま一体どこまで行けと言うのか。フォートムンロという山の上の宿までつれていくつもりじゃないのか、そんな不安がよぎった。
幸い彼らも私が疲れ切っていることを悟ったらしく、警察のチェックポイント手前の古いキャンプ地で一休みさせてくれた。このチャンスを逃す手は無い「あと3km行こう」という彼らを押し切り素早くテントを張り、夕食を作り始めた。是が非でもここで泊まるつもりだ、さらに「3km」なんて言うけど、その甘言を信じてはいけない。「3km」ってことは10kmって事だ。この上り坂なら一時間半はくだらないだろう。
翌日「3km」という名の8kmを走ると、なるほど警察のチェックポイントがあった。名前だけ記入し、さらに坂道を登った。「エスコート」を自称する警察官はその後も時々私の回りに出没したが、さして付きまとわれることもなく、サイクリングを楽しむことができた。
坂を登るのは楽ではないが、その分喜びも大きい。昼過ぎに着いたフォートムンロはさわやかな涼しさで緑が輝いていた。人々も驚くほど友好的で優しかった。トライバルエリアと言っても必要以上に恐れる必要は全くなさそうだ。涼しくなれば食欲もわき、食べれば食べるほど力がわく。クエッタまで走りきる元気がわいてきた。
▽最後にデラガジカーンについて後にわかった事を付記しておく。
ここに起きた米国籍を持つパキスタン人逮捕事件だが、実はそれは外国人を排斥する単なるきっかけだったらしい。真相はこの町で何が行われているかの方にある。はっきりとは聞き出せなかったけど、どうやらそれは核開発に関係しているようだった。
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