■[報告]第一次パキスタン(鬼門)
□2004年4月2日
□パキスタン・ラホール

▼概要

報告が非常に遅れてしまったが、前回の一時帰国に至るまでを再度記しておく。

2003年9月、私はインドからパキスタン・ラホールへ入った。居心地の良い宿でしばしリフレッシュすると、一路イランへ向け走り出した、が。

▼パキスタンと日本人旅行者

2003年9月、インドからパキスタンに入国。その国境の町で早くも異変に気づいた。というのは急に日本人旅行者の比率が増えたからだ。まず国境で3人の日本人旅行者に会った。もちろんインド国内の観光地ならこの程度の日本人に会うこと自体何も珍しいことではない。しかしこの時特徴的だったのは一人の西洋人旅行者にも会わなかったことだ。
ラホールには「泥棒宿」があったらしい。この噂、私が初めてアフリカを旅した時から耳にしていたわけで10年を越す歴史を持つ。しかし未だに噂は後を引かない。つまりこれはもう伝説になったと言ってもいいくらいだろう。
ともかくそんな事情から、今でも特定の宿以外、ラホールでの宿泊は避けられている。その一軒に入ってみて驚いた。ここは日本人村だ。無数と言っていいほどの個人旅行者が狭く小汚い部屋の地べたに並んでいた。
さすがにこの部屋に自転車ごと上がり込むのに気が引けて、私はもう一方の安全マーク付の宿RPI(Ruwalpindi Popular Inn)に泊まることにした。ここも日本人比率は高かったが、まだできて間もなかったためか知名度が低いこともあり、道路からの騒音にさえ目をつぶればなかなか落ち着いた居心地の良い宿だった。

▼911と宿の移転

今回ラホールで泊まったの宿は名前の通り、もともとラワルピンディにあったそうだ。当時はとても大きな宿で日本人旅行者に絶大な人気があり、毎日にぎわっていたという。ところがあの9.11で全てが変わってしまった。
旅行者のにぎわいはわずか数日で影を潜め、休業に追い込まれたという。
「パキスタンは何も変わっていないのにね」宿主は乾いた口調でそう嘆く。風評被害とはこのことだろう。特に欧米人の旅行者はぱったりと見なくなったそうだ。
その後は年を重ね、徐々に観光客も戻ってきている。しかしテロこれひと事とどこにでも行く日本人と違い、まだまだ欧米人の比率は低いようだ。
そんなわけでRPIは大幅に規模を縮小し、ここラホールに再オープンしそうだ。まだ移転後間もない出来立てほやほやの宿だった。
なるほど宿は小さく、8人部屋のドミトリー一室がメインで、あとはシングル・ダブルルームとしても兼用される4人部屋が二つあるだけだった。トイレは全て共同で二カ所のみ、キッチンは階段の片隅にあるガスコンロ一つという状態だった。しかし大きな冷蔵庫があり、自炊するには非常に助かった。そしてなにより親身な宿主兄弟に暖かく迎えられ、本当に心休まった。そしてそのありがたみを心底実感したのはもちろんその後の肝炎においてであった。

▼パキスタン人のもてなし

パキスタン人というとなぜか日本では良いイメージが無いのは事実だろう。しかしここに来てみるとそれが全く間違っていることに愕然とさせられる。そもそもムスリムの人々は旅人に対して優しいことは良く言われることだが、それはラホールの様な大都市でも変わらなかった。宿のそばの食堂で何気なく食事をしていると声をかけられる。そして日本から来ただの、パキスタンの印象だの日常的な会話が一通り済むと彼らはこともなげに私の食事代を払ってくれたりするのだった。これは一度や二度ではなかった。
たまたま食堂の場所を聞いただけのような縁でわざわざ案内してもらい代金まで払ってもらったりしたこともあった。もちろんこの国にも悪い人はいて、睡眠薬強盗の話も聞くから気をつけなければならない。しかしそれにしてもほとんどの人たちが好意的で驚いた。そしてその好意が押しつけがましくないことに好感を持った。後で日本の住所を聞かれたりビザの手配をせがまれる、あるいはペンフレンドになりたい、といった下心が見えなかったからだ。旅人に親切にすることでお互い幸せになれるという態度だ。こちらはただ相手にそんな徳を積ませてあげているのだとどうどうと親切を受けるのが正しい態度らしい。

パキスタンではある意味宿の心配は全くない。Chichawatniでは宿の場所を聞いたらそのままここに泊まっていきなさいと引き留められてしまった。後述のShujaabadでも同様だ。町に宿が無いと聞きがっかりしたそばからそれを教えてくれた本人がうちに泊っていけばいいと即座に名乗り出てくれたのだった。
こんな好意には遠慮せず甘えるのが良い。そう思い、でも手ぶらで行くわけには行かないと思い、スイカを買ったのだが、なんとここでも彼らは私の前に割り込み、お金を払わせてくれなかったのだった。こうなっては打つ手がない。私にできることは撮った写真を送ることくらいだろう。

とにかくフレンドリーで親切、それでいて自然体。決して押しつけがましくない彼らの人の良さは世界随一だと思う。以前アフリカで人の良さに驚いた国・スーダンすら凌駕するくらいパキスタンの人たちは友好的だった。

▼西へ

ラホールを後にすると一路西へ、西へと快走した。ムルタンまで約320km、これをたったの3日間で走った。距離だけで言えば無理のないものだったが、半日のハラッパ遺跡見学を含めた日程ではきつかった。
ハラッパ遺跡は日本の歴史教科書に登場する有名なインダス文明の遺跡である。しかし目に見えて残っている物と言ったら煉瓦の山積みくらいだった。しかしもの山積みが実物か体裁だけ整えようと復元した物かも良くわからない。第一煉瓦の山積みなら今もこの地方に普通に見られる光景であり、極端な話「現在建築中の工場です」などと説明されたなら信じてしまいそうなくらいだった。
むしろここに来た価値はインダス文明がどんな場所で勃興したかを感じることにあったと言えるだろう。35℃を越すような暑さの中、遺跡の背後に干上がったかつての河川の跡を遠望したり、また遺跡への道すがら見た、波々と水をたたえる巨大水路を見ながら、文明とは何かと言うことに思いを巡らせた。
私たちはこれまで進化というととかく漸近的な物と考えがちだが、実際はもっと断続的なものらしい。止むに止まれぬ状況から生まれた相転移して発生した物ではなかったのではないだろうか。以前紹介したマーヴィン・ハリスの言葉を借りれば、強い再生産の圧力から生み出された物なのだろう。
ちなみにこれは文化に限らず生物学的な進化にも当てはまるらしい。つまり、生物の進化とはある特異な環境に置かれた少数の個体から急激に進んでいく物らしい。
四大文明にしても乾燥、洪水、天然資源の欠乏といった「過酷な環境」の中から始めは小規模にしかし劇的に興ってきた物なのかもしれない。
そうしてみると、この法則は現代にも通じるのではないかと思い当たった。ハイブリッドカーからコンピュータ、携帯電話といった「文明」は激しい環境の圧力、やむにやまれぬ忙殺の日々の中から産み落とされているように思える。それを見て発展とは何だったかと嘆くのは案外逆なのかもしれない。嘆くべきは再生産の圧力の方なのだから。

▼ムルタンそして発病

3日間爆走し、へとへとになってムルタンに着くと私は少し上等なレストランに足を運んだ。疲れた割に食欲がなかったからだ。多少のお金を払えばパキスタンでも立派な料理が食べられる。私がオーダーしたチキントマトライスはなかなかの美味で思わず食べ過ぎてしまった。
異常に初めて気がついたのはこの日の夜のことだ。はじめはただ食べ過きただけかと思っていたが、不思議とみぞおちの部分が痛んだ。翌日はムルタンを観光。この町には聖人廟がたくさん残り、それらが乾燥した青空の下に映え、美しかった。
私は先を急いでしまった。ムルタン観光の翌日、まだ疲れが十分にとれぬまま午前10時から走行開始。炎天下の中、スジャバードへ向かった。どうも食欲が出ない、暑すぎるのだ。スジャバードにつくと、小さな商店街に入り、ひさしの下に横たわると小一時間もぶっ倒れてしまった。日射病に違いない、そう思った。
不運だったことはスジャバードに宿がなかったことだ。こんな時、実は一人になれることは非常にリラックスできるので助かるのだが、そうはいかなかった。
ともあれ、ここがパキスタンで本当によかった。たまたま文字通り倒れ込んでしまった若き靴屋のオーナー・カルマン君は自宅に泊まっていくよう招き入れてくれた。
遠慮する余裕もなく、彼の家に行き、夕食をごちそうになる。わざわざどこからか持ってきてくれたチャーハンはおいしかったけど油っこかった。
翌日、まだまだ調子が悪かった。みぞおちの部分も痛む。このまま一旦ムルタンに戻るべきだろう。そう思わなかったわけではなかったが、また欲を出してしまった。そしてまだ事態の深刻さに気づいていなかった。74km走ってふらふらとバハワルプール着。そして翌日倦怠感を押し、公立病院を訪れた。

ビクトリア病院は名前こそ立派ながら、正直に言ってちょっとひどかった。休日のため救急に行ってしまったことも一因なのだが、10秒に満たぬ診察の後、私は問答無用で別室につれて行かれ、気がついたら看護師が注射器を持ってやってきたからだ。

「ちょっと待て、それは一体なんだ。」

「痛み止めですよ。」

善意を裏切られたような表情の看護師に私は強く拒絶を示し、病院を後にした。問答無用で沈痛剤とは最悪だ。
こんなところで治療を受けよう物なら殺されかねない。明日になっても症状が回復しなかったらラホールへ戻ろう。そう決心させられた。

症状は38℃前後の発熱と食欲不振。みぞおちの痛み。喉の渇きなどだった。発熱と食欲不振までは特に珍しい症状ではなかったが、局所的に腹が痛むことが不可解だった。10秒間の診察時に肝炎を疑いここは肝臓か?と聞いたのだが、医師は違うと言っている。(注:肝臓は沈黙の臓器といわれ、それ自体痛むことはない)
それからのどの渇きも通常とは異質だった。非常に濃い尿が出て、意識的に水を飲む。ところが水を飲むとすぐさま尿意を覚え色の薄い排尿を引き起こし、暑いのに汗となって出てくれないのだった。
そして喉の渇きも依然いやされないのだった。
翌日、丸一日寝て過ごしたが、症状は回復せず、夕方一気に決断してバスに飛び乗った。
ラホールに着いたの時にはもう深夜2時を回っていた。申し訳ないと思いつつ、RPIのベルを押す。こんな時間になだれ込んでしまって情けなかったけどどうにもならなかった。

「ようこそいらっしゃい。」
「ここは宿でなく、家だと思ってもらっていいんですよ。」

私は助かったと思い、暖かい言葉に感動した。

注:バハワルプールの病院についてひどいことを書いたが、ここの医療が万人に対し完全に無料であったことは特筆すべきだろう。もちろん私に対しても無料だった。質の問題はもちろんあるが、システム自体は誇ってもいい。

▼腸チフス

病気については血液検査専門のラボがあると言うことで、安直にそこへ行き、腸チフスとA,B型の肝炎の検査だけ行うことにした。まさかそんな病気ではないだろうと言う侮りがあったことは認めなければならない。
腸チフスの検査をする気になったのは日本大使館の医務官の方のアドバイスがあったからだ。「感度は低いんだけどね。」という言葉が気になったが、しないよりはしたほうがいいと思い、受診した。
ここも反省点なのだが、この時点で素人考えの検査に走ってしまったことも失敗だった。
バハワルプールの病院があまりにひどかったことが尾を引いてしまったわけだが。
結局二日後に結果を受け取りにいくと、事も無げに「腸チフスが陽性ですね」と言い渡された。病院行きが決定した。

当初は日本大使館に病院を紹介してもらおうと考えていたが、それはかなわなかった。大使館在勤医務官の任務は大使館員の健康管理であり、旅行者に対して紹介する情報は持ち合わせていない、と言うことがその理由だった。また大使館員は首都周辺にしか滞在しないので、首都でないラホールの情報は実際に無いとの話だった。
病因もはっきりしたことだし、宿の人の話でも少なくとも数日は入院させられるだろうと言うことで、私は加入している保険会社にまず連絡してみることにした。実際保険会社はかなりの情報を持っており、すぐに最善と思われる病院を紹介してくれた。
保険会社というと加入はしていてもつい眉につばを付け、色眼鏡で見てしまう傾向がある。人の不幸や不安感を売り物にしているとの偏見も強い。しかし少なくとも今回の件に関しては驚くべき活躍を見せてくれた。最初の数日は一日一度以上病院に電話をかけ、提携病院ではないここの病院でもキャッシュレスで治療できるよう努力してくれた。
病院側は好意的に私を扱おうとはしてくれていたが、提携・保険会社からの支払保証の契約がないこともあり、7000ルピー(約15000)円の一時金支払いを払った後も対応はあまり良いとは言えなかった。
保険会社は直接病院側が保険会社を信用してくれていないと悟ると、あるエージェント(代理店)を使い、イスラマバードから病院まで人を派遣し、追加の一時金を病院に支払い、話を全て付けてくれた。ここまでしてくれるとは思っていなかっただけに本当に驚いた。保険のおかげで個室の病室にも入れることになり、王様のような暮らしが始まった。

▼病院の対応

エージェントが20000ルピー(4万円)の一時金を支払うと病院の対応はさらに改善した。それまで患者の食事に関して全く説明もなく、放置されていたのが一転して栄養士まで現れすべてアレンジしてくれるようになった。服や洗濯、そして最後は国際電話もかけられるように手配してくれた。
「パキスタンで一番の病院」と彼ら自身が誇るのはとても良く理解できた。建物は円筒形で地下に続く巨大な吹き抜けがあり、そこはモスクとしてお祈りできるスペースになっていた。個室はVIPルームでなかったにも関わらず6畳は越える広さで、バストイレ付き。床は石を組み合わせた重厚なものだった。さらに電話もあれば衛星テレビまであり、NHKまで映るのだから驚いてしまった。
ただ、いくらパキスタンで一番であっても日本と比べてしまうとどうしてもあらが目立った。たとえば看護師の質はまだまだ低いと感じられた。人によって技術にも差があり、体温・血圧・脈拍の測定にしてもファイルに記入していたりNo feverと一言つぶやいて済ませていたり一貫性が見られなかった。
食事にしてもせっかく栄養士がデザインしてくれたにも関わらず、相変わらず油っぽいチャーハンが出てきたり量が倍になったり半分になったり不可解なことも続いた。ここは日本ではないのだから同質の物を求めるのは間違っている。しかし医療に際しての衛生管理や栄養管理、そして必要な事項については何度も確認するといった部分、つまり基礎教育に関わる部分においてまだまだ低い面を感じた。

▼肝炎

病院に入院した日の初診で、すぐに私は肝炎と言い渡された。明らかな黄疸が出ていたからだった。そして血液検査の結果、私はE型肝炎と診断された。A,BそしてC型などは良く聞くが、E型というのはあまり聞かない。何度も聞き返してしまったが、確かにE型肝炎だった。
幸いE型肝炎はA型とかなり似通った性質で、主に糞便で汚染された水を介して感染し、3〜4週間で自然治癒するそうだ。いずれにしてもこれらはウイルス肝炎なので抗生剤のような特効薬は無い。ただ安静にして自然治癒を待つしかないと言う。
ちなみに肝炎にかかると黄疸になる原因は肝機能の低下にある。
まず、赤血球中に含まれるヘモグロビンは肝臓で胆汁色素に分解される。その主成分がビリルビンという成分で、これが肝臓を経て胆汁の一成分となり、腸に排泄されている。この胆汁こそがそれまで無色だった糞便に色を付けている。
またビリルビンは腎臓を経て、尿としても排泄されており、ここでも尿に色を付けている。
肝炎に罹ると肝臓から胆汁となって排泄される経路に問題が発生し、結果便の色が薄くなる。逆に腎臓が普段以上の努力をして排泄するため尿の色が濃くなるのだが、それでも排泄が追いつかなくなると血液中に胆色素ビリルビンが累積され、黄疸として症状が現れるのである。

話には聞いていたが、まさか自分がなるとは思っていなかったわけで、言われてから毎日病室で自分の眼球と顔の写真を撮ってみるとなるほど黄色い。いわゆる白目のところが黄色くなり、顔全体も黄色く染まってしまっている。
よくよく思い出してみればそれまでもなんか皮膚が黄色っぽくなってきていることには気づいていた。しかし、まさかそれが黄疸の症状とは思わなかったし、むしろ病気で自分の目のホワイトバランスが狂っているせいだろうなどと都合良く思いこんでいたのだった。
ちなみに肝炎についてはA型とB型の予防接種を受けていたことも油断と過信の原因になった。経口感染する肝炎にはE型なるものが存在していたのだから。

注:さらに予防接種は人により抗体のでき方、保持に差があることにも注意が必要だ。接種後に抗体検査を行い、確認しておく方がよいだろう。ちなみに私の場合、A型肝炎の予防接種はもう何度もしているが、抗体はまだ持っていないことも判明した。体質的にワクチンがうまく抗体を作ってくれない場合、予防接種を受けても無意味になる。結論は後にも先にも飲み水、食べ物に注意することに尽きる。

▼潜伏期間

最初に症状を自覚したのが9月22日。それから潜伏期間の約2週間を引くとちょうどインドのダラムサラ滞在中という計算になる。思い起こしてみればダラムサラでは疲れがたまって数日休息をとっていた。抵抗力が落ちていたのだろう、ここで感染してしまっていたに違いない。あるいはもう少し前という計算でもやはりインド。デリーあたりで、拾ってきてしまったものらしい。
ちみなに今回、腸チフスと結果が出て、後に肝炎ということになったわけだが、どうも腸チフスに関してははっきりわからない。途中で抗生剤を取ったため、免疫ができることもなく、私の体から消えていってしまった。帰国後の検査でも一切チフスは検出されなかった。最初の検査の精度も確かではないらしい。
今回の症状などはいずれも肝炎のものだった。調子が悪い日がしばらく続き、黄疸が出るのは発病後しばらくたってからという点も、まさにその通りだった。そして黄疸が出るとともに症状は皮肉にも落ち着いてくる。これもまさにその通りで、入院した頃にはずいぶん落ち着いていた。

発病後、結局10日ほど入院し、その後もしばらくラホールで自炊生活をしたが、結局万全を期すため、今回は一時帰国することにした。このまま走る自信もなかったし、近々イランビザが切れてしまうことも一因だった。なにより精神的に少しリフレッシュが必要だった。そんなわけで一時帰国する事に決めた。

こうして旅の第二ステージは意外なところで終わってしまった。しかし旅をあきらめるには早い。パキスタンもイランも逃げてはいかないのだから。

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