■タイトル インド2(カジュラホからデリーへ)
□文書作成 インド・デリー
□作成日時 2003年9月2日

▼概要

バラナシを離れると私はカジュラホにより、ジャンシ、アグラを通りデリーへ向かった。

▼州による違い

インドを走ってみて実感したのがこの国は州による差が一段と大きいことだった。例えば一番身近なチャイ(ミルクティー)一つとっても東では一杯が1ルピーだったのに西に行くに従って徐々に値上がりし、デリーでは3ルピーもした。飲料水のボトルはその逆だ。東では観光地以外では見かけることがなかった。あっても1リットルの物だけで12ルピーもした。ところが西へ来ると2リットルの物も比較的多く売られるようになり、デリーではなんと15ルピーで買える。経済格差がかなりあり、生活スタイルにも違いがあることが容易に想像できよう。
人々の気性にも大きな差があった。驚いたのはウッタラプラデシュ州からマディヤプラデシュ州に入ったときだ。州境はどうやら低地と丘陵地帯の境目であり、その地勢を反映してか急に人当たりが柔らかくなった。それまで道ばたの人々は荷を山ほど積んで自転車に乗る外国人を見つけては奇声をを発したりCome!Come!と横柄に呼びつけるような態度だったのが、突然伏し目がちにハローと微笑みかけてくるようになった。これには驚いた。きっと地勢を反映して長く異なった歴史を歩んできたのだろう。
同じ国であり、同じ言葉を話しているとは信じられないくらいだった。
別の例を挙げよう。カルカッタからバラナシまで、建築的に目を引かれることはあまりなかった。もちろん所々に歴史的な遺跡や寺院が立っていたが規模、質ともに大したことはなかった。ところが徐々に西へ移動し、カジュラホあたりから事情が変わってきた。何気なく丘の上に残されたような寺院、城壁、城塞、宮殿が実にすばらしいのだ。実際ガイドブックに載らぬような小さな場所を何度も見たが、忘れられていることが不思議なくらいすばらしい物が多かった。極めつけはタージマハルである。この美しさについてはまた別に書かねばなるまい。

▼カジュラホの寺院群

今回時間的に行けないかと思っていたカジュラホだったが、連日の長時間走行が実り、この古くても立派な寺院を見ることができた。ここが有名になったのは単に寺院一面に彫りの深い彫刻が施されているからだけではなかった。かの有名な男女交合のミテゥナ像があるからだ。
確かにミテゥナ像はすごかった。一体どこがどう絡んでいるのか頭をひねらないとわからないような奇抜な体勢で彼らは喜々として抱擁しあっていた。このミテゥナ像のいわれについてはいろいろあるそうだが、単なる ポルノグラフィーで無いことだけは一目瞭然だ。しかし、私の心が濁っているせいだろうかやっぱりどうしてもミテゥナ像にばかり目が奪われてしまうのだった。
それからミテゥナ像以外にも非常に過激な描写が何カ所か見られた。それはどうやら一般大衆の生活を描写している彫刻のようだったが、なんと馬と交わっていたり数人入り混じった行為であったりした。聞くところによれば同性間の交わりを描写したのもすらあるそうだ。
  残念だったことはこれらの寺院が完全に考古学の上に管理され、信仰の対象になっていなかったことだ。つまりそれらは死んだ寺院群と言っても良かった。もちろん金網を張ってこのくらい管理しないとすぐに痛んでしまうことは良くわかる。しかし無味乾燥な博物館のようになってしまうのも何か物足りない気がした。

▼城跡を巡って

カジャラホを後にすると私はジャンシ、ダティア、そしてグワリオール、アグラと駒を進めた。そしてまた後日、秀霞とアグラのタージマハルや、オルチャの城跡を訪れた。
インドの城跡はすばらしかった。デリーのレッドフォートには少しがっかりしたけど、そのほかの城跡はどれも深い魅力に包まれていた。
たとえばグワリオール。周囲7,8kmはあるかという大遺跡だった。城は南北に3kmもある台地状の険しい断崖の上に延々と築かれており、自転車でないと見て回れぬくらい広かった。そして宮殿跡もすばらしかった。一枚岩をくりぬいた格子スクリーンはじめ、色あせぬタイルワークやきめ細かい彫刻。何度もその美しさにうならされたものだ。そして北側の宮殿は廃墟そのままになっていた。散策は探検気分だ。また驚くことにこんな台地の上でも宮殿内の池には天然の水が溜まり、子供らが水牛に混じって水遊びをしていた。
ダティアの宮殿もすばらしかった。地球の歩き方はおろか、ロンリープラネットでもほんの数行しか記述されていない所とは思えぬほど見応えがあった。ここの内部は迷路のようになっており、また通行禁止の金網がそれに拍車をかけた。階段は万一に備えてか非常にわかりづらい物陰にひっそりと作られていた。見つけるまでが一苦労だった。
そして最後に訪れたのがオルチャだ。私はこの場所を強く人に勧めたい。古くに遷都したことが幸いして城壁から宮殿までそのほとんどが良い状態で残っている。そして宮殿からの眺めは緑の続くユートピアの様だった。さらにここにはHotel SheeshMahalという宮殿内を改造して作られた宿がすばらしかった。さほど客も訪れないせいだろうか、スタッフの人たちもとても感じが良かった。
有名なところに戻ってアグラ城もすばらしかった。遠景のタージマハルが彩りを加える。そして軍用地として立入禁止の宮殿がまた魅力的にそびえていた。

▼白亜の霊廟と下界の喧噪

言わずと知れたタージマハルは実にすばらしかった。よくがっかり名所なんて言われる期待はずれの観光地が世界にはたくさんあるが、ここはその名に恥じぬ堂々たる廟堂だった。
タージマハルはムガール帝国第五代皇帝の愛妃のために建てられた墓だそうだ。白大理石を主体にその微妙な色の違いを巧みに利用したような建物は単に整然と設計されているわけではなく、人間の視覚に訴えるよう、アレンジされていた。目の錯覚を巧みに利用した構造になっていて、実物は実物以上に高く、大きくそびえて見えた。
そしてなにより品質がすばらしかった。全てにおいてこれはインドのあらゆる建築から群を抜いている。大理石の柱やパネルに所狭しと埋め込まれたカラフルな貴石による装飾を見ていると建物自体が宝石だと言う事実に圧倒される。特に内部の墓石周辺がすばらしかった。相当の腕とセンスとある人が時間をかけて精魂込めて作り上げたに違いない。

一方アグラの町は他に例を見ないほどたちが悪かった。客引き、押し売りのしつこさと悪態には辟易させられた。どうしたらそこまで身勝手な押し売りができるのかと神経を疑うに十分だった。
インドでは比較的ぼったくりは少ないと感じてきたがここでは単なる飲料水のボトルすら平気な顔をして2倍の値段をふっかけてくる。絵はがきにおいては全く想像を絶する世界だ。250ルピーから始まり、200,100,50,30,25とどんどん安くなり、ついには二セットで25ルピー、もってけ泥棒!とばかりに押しつけてくる。そこまでされると買う気があっても失せるというものだ。どうしてここまでひどいのだろう。
ひとつ考えられたことはタージマハルの入場料の不公正だ。政府がインド人と外国人で数十倍という料金格差をつけ続けている以上、地元の人がそれを真似るのは当然とも言えよう。そこらの安宿や食事が数ドル、リキシャにしても1ドル以下という世界においてタージマハルだけが15ドルという価格で他を圧倒しているからだ。下界の民も分け前をよこせと反乱を起こす気になるのがわからなくもない。それにしても劣悪な押し売りには心底がっかりした。

▼インドと中国

この二つの国はいろいろと共通点が多かった。溢れるばかりの人口を抱え、巨大な国土に多様な州を抱えている。そして眠れる獅子のように未来をにらんでいる。産業は全て自国内に整っており、安価な日用品から自動車、トラック、鉄道、そして果ては原爆まで作ってしまう頭脳と技術がある。加えて別途述べるような豊かな食文化を共通項として加えても良いだろう。しかし両国ともまだまだ貧しく、一日10ドル未満で旅するは十分可能なほどだった。
しかし、一見似ている外面と共に大きな質的な差も見せつけられた。それは未来への予感という差である。急激に近代化し、10年後すら想像もできない中国と何百年と変わらぬ営みが10年20年では変わりそうもないインド。その違いはどこに起因しているのだろうか。
よく言われることだが、インドにはまだ身分制度がどっしりと居座っているように感じた。それは旅人が通りすがっただけで見えるほど明らかな訳ではない。しかし少しづつ時間がたつにつれ、彼らの間に見えない壁がそこら中に立ちふさがり、大きな諦めが横たわっているように思えた。
努力すれば報われる。そんな価値観はインドではあまり見かけなかった。貧富の差は当然のように存在しており、誰もそれを解消しようとは思わない様だった。
一方中国ではいくら沿岸部と内陸の差が広がろうともチャンスは努力と才能次第で誰にでも用意されていた。感覚的な印象で断言してはいけないが、それでも貧富の格差は短期的なスタートの差にすぎないと感じられた。平等な機会の中、全員がせめぎ合う活気が中国のパワーだ。一方インドは黄金時代を既に終えてしまったのだろうか。廃退したハルマゲドン後を描く未来小説のような国だった。

▼インドと英語

もう一つインドで強く感じたことは、彼らがまだ英国の植民地時代の傷跡から抜け切れてないのではないか、言うことだった。多様な地域差から英語が共通語になってしまっている面も否定できないが、多少小難しいことをしようとするとこの国は英語が堪能でない限り困難がつきまとう事は間違いなさそうだ。
身近なところでレストランのメニューからして全て英語なのだ。ところが町に出てみれば英語を話せる人はごく一握りである。アルファベットすら読み書きできぬ安食堂の店員を見て驚いたことすらあった。英語という差別装置はポストカースト制度として確実に機能しているようだった。
知っているつもりでも目の当たりにすると驚くことがある。インドで二等列車に乗ったときの事だ。小学生を引き連れた先生が英語で注意を与えている。それどころかその小学生同士が英語で会話していたのだった。信じられなかった。
そしてさらに乗り合わせた若い女性が子供らがうるさいと言ってまた英語でその先生に食ってかかっていた。なぜインドの言葉を使わないのだろうか。
これに似た状況は東アフリカの旧英国植民地で何度も見てきたものでもある。しかしインドの英語は「必要に迫られた実用品」という以上に差別装置としてかたくなに守られているもののように見えて仕方が無かった。

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