■タイトル インド1(カルカッタからバラナシへ)
□文書作成 インド・デリー
□作成日時 2003年9月2日

▼概要

ベナポールから陸路インドに入ると、コルカタ(カルカッタ)に数日滞在し、ブッダガヤ、そしてバラナシを目指した。

▼西へ、西へ

カルカッタでは数日滞在しただけで、すぐブッタガヤを目指した。なるべく交通量の少なそうな裏道を探して国道を避けるようにして走ったが、なかなかそううまくも行かなかった。
インドではバングラデシュより宿探しに難航した。政府系のレストハウスがなかったからだ。よって全て民間のゲストハウスに頼らねばならなかったが、小さめの村や町には無いことも多かった。どうしても宿が見つからず、夜になってしまった晩は、駅の待合室に泊めてもらった。正式には認められないそうだが駅長が機転を利かせて融通してくれた。野次馬と蚊には少々悩まされたが安全第一だ。逆にこれだけの人が見ていれば危険は少ないと言って良かった。
その後はしばらく国道2号線を走った。部分的にすばらしい4車線のハイウェーになっていたが、古いカ所は地獄の様であった。土埃と煤煙とで体中が真っ黒になる。特大のクラクションで追い立てられると命が縮む思いがする。
ちなみにこの道路整備はインドの首相が音頭をとって勧めている事業らしかった。所々に首相の写真入りで事業のアピールがされていた。その名も「ドリームプロジェクト」だった。
ちょっと待て、今はもう2003年だ。21世紀になって大国の主要幹線路を4車線に拡張する工事を「ドリームプロジェクト」呼ばわりしていいものだろうか。せっかく写真入りで首相の名前が掲示されていたけど、いまさらという感が強い。名前なんて隠して、こっそり工事した方がインドの名誉のためになるような気がしてならなかった。

その後はまた裏道を通過してナーランダへ向かった。何カ所か徒渉ヶ所もあったが、水位は低く、難なく越えることができた。また、所々にムスリムの村があったりしてインドの多様性を思い知らされたりした。
それから全くの平地かと思っていたところに峠が出現したこともあった。峠の前後には天然の森林地帯が続き、とても美しかった。

▼ブッダガヤを後にして

仏跡巡りの事については別途コラムにまとめることにして、ここではサイクリングに話を絞ろう。ナーランダからブッダガヤへの道は部分的にひどい悪路だった。穴だらけの舗装路は時として未舗装路より遙かにたちが悪いものだった。そしてここビハール州は強盗団で有名なところらしかった。幸い強盗に出くわすこともなく、また地元の人たちも友好的で楽しかったが常に警戒の目だけは怠らぬよう注意した。ガヤに入ると急に雨が降り出した。カルカッタを過ぎ、もうモンスーンから抜け出したと思っていたが、それは早とちりだったらしい。その後も雨は時として降り続いた。
ブッダガヤからはササラムに寄り、バラナシへ向かった。ササラムはあまり知られていない地方都市だが、SherShahの陵墓が美しかった。

▼インドの中のインド

バラナシは毎日がお祭りのようだった。ここはカンガンー(ガンジス川)のほとり、ヒンズー教徒の聖地である。オレンジ色の短パンとTシャツ。肩には天秤棒のような飾りを担ぎ、歌を歌いにながら陽気にガンガーへと向かっていく。町は全てのものが混沌としていた。車両通行止めの目抜き通りはそれでも人で埋まり、毎日同じ音楽が流れている。沿道には土産屋から安食堂、チャイ屋、宝石商、雑貨店など所狭しと並んでいた。道行く巡礼者の間にはその間を縫って走るサイクルリキシャからうっとおしい日本語をしゃべる宿の客引き、半ば押し売りのような土産物売り、そこら十に糞尿を垂れ流す牛、犬、さらにヘビ使いまでいたのだった。ここはインドの中のインド、そう言われるのも無理もないように思われた。
ガンガーははっきり言って汚かった。単なる土の色とは思えぬ汚れに満ちていた。それでもここは聖地であり、人々は沐浴し、体を浄めていた。

▼ガンガーの火葬場

ここバラナシは火葬場を見学できることでも有名だった。遺体は一度ガンガーに浸し、浄めた上でさらに火葬される。それは顔を含めて全身布で覆われているが、積まれた材木の上に置かれ、火をつけしばらくすると中の骨や燃える肉が露になる。しかし不思議と私は衝撃を受けることは無かった。むしろそれはごく自然な人々の営みの一こまのように写った。
ヒンズー教の習慣をかいま見てきて感じることは「浄め」という行為が多く見られることだった。それは額に紅をつける習慣や、神聖な遺物に何かと触れ、額や口をつける習慣にもつながっているように思えた。汚れと浄め、そして魔除けやまじないと言ったことに関しては日本でも良く行われることだ。しかしヒンズーのそれはどこか後ろめたさの残る日本の習慣と比べ、より積極的で推奨されているものの様に感じられた。
火葬場で私がまず感じた疑問は遺体は汚れているのか、という疑問だった。もちろん私の質問のベースに浄土教的な生死観がある事は認めなければならない。しかし「ガンガーで浄め、さらに火葬して浄める」という説明には「そこまで汚れているものなのか」という疑問を起こすのに十分だった。そして「聖なるガンガーですら十分浄められないものがあったのか」と突っ込みを入れたくなる。冷めた言い方になるが私にはガンガーの浄めには、遺体をくるむ布を皮膚に密着させ、すぐに燃やさぬようにする、そんな実利的な面が強いように感じられた。

そして困惑したのがここでも変わらぬ押し売り商人だった。「死を待つ人のために材木を管理する仕事」をしているというその人は流ちょうな英語で火葬場の説明をした後、寄付を迫ってきたのだった。せっかく説明してくれたから多少の小銭は渡さないとと思っていたが強引に良心につけ込んでくるやり口に辟易した。第一薪一キロ3ドルもするという話からして信じられなかった。それはいくら何でも高すぎる。そして「何キロ寄付してもらえますか」と迫る。「寄付されるかどうかはあなたの自由ですから」と潔癖さをアピールしながらも圧力をかけてくるのだった。
私には「死を待つ人」と言う存在が良くわからなかった。聞けば身寄りを亡くした人たちがここに来て死を待っているという。ここバラナシで焼かれると言うことはそうそうかなえられる幸運ではないからだそうだ。そしてそれまでの間、自分を焼く薪を乞い続けているという。しかしそこにいたおばあさんは決して病弱には見えなかった。むしろぴんぴん仕事ができそうな表情をしていた。なぜ元気な老人がわざわざ全てを放棄して蒔き目当ての物乞いにならねばならないのか。私にはさっぱり理解できない。私はそう彼に伝えると、彼は切り札のつもりなのだろう「もう一度頭を空にして火葬場をご覧なさい」と言った。それはもちろん望むところ、焼かれていく遺体をただただ眺めた。
ところが数分後、彼は早々にしびれを切らし、私に「寄付するのか、しないのか」と迫ってきたのだった。私ははっきりと「寄付しない」と答えた。得体の知れぬ人にどうして金を渡せよう。そして「あなたの活動をまだきちんと理解できないうちにお金だけ渡すのは逆に失礼になるから」と伝えた。これは本心だ。
終いには彼は怒ったように私を追い出し始めた。これには笑ってしまう。望むところだもう立ち去ってやる。
話全てが嘘だとは思わない。しかし人の良心につけ込んで外国人から金を巻き上げようと言う魂胆は見え見えである。なるほどインドにはいろんな商売があるものだ。油断も隙もないと実感させられた。

▼インドに負けた

あの藤原新也氏が初めてインドへ行った理由を訊ねられて、「なんでもかんでも負けに行ったんじゃないかな。」と答えた文を読んだことがある。そのくらいインドは強烈であり、カルチャーショックをもたらすと言われている。
しかし私にとってインドはさほど精神の根底から突き動かすものではなかった。そもそも私の場合既にアフリカを経験している。従って生半可の事には動じないつもりだ。でも、私もそのインドに一ラウンド取られてしまった。インドに負けてしまった。
何度か書いてきたように、私にとってインドはバングラデシュと比べて「大人」という印象だった。交通マナーが思っていたよりはましだったし、日用品の価格は物に印刷されており、それ以上にぼったくられたりすることは少なかった。電話でさえレシートが印字される明朗会計だ。そのほか道ばたの屋台などでも意外と適正価格を言われることが多く、ストレスはさほどたまらなかった。
とは言っても日本のようには全てが進まないのもまた事実で、訳もなく延々と待たされたり、釣り銭が無く受け取りを拒否されたり、やる気のない対応にイライラすることも多かった。「お客様は神様」の国から来るとつい「何様のつもりか」と怒りたくなる事もあった。宿でもレストランでも不潔。ゴミの散らかしっぱなしなど、書き出したらきりがない。しかしそれらは全て承知の上だ。そのいちいちに腹を立て、自己の精神を安定を守れなかった場合、負けになるのだろう。
インドは広く大きい。そして状況は州によって大違いであり町によっても全然違う。そしてカースト制度張りに価格帯によって明白な違いが横たわっている。従って「インド」とひとくくりにしてしまうことには問題がある。
さてつべこべ述べてきたが、負けて無いつもりだった私が、インド滞在3週間目にしてついに一敗を喫してしまった。所はカジャラホにほど近い国道沿いの安食堂。いつものようにプーリーを食べて値段を聞いて驚いた。50ルピー(約130円)とのたまう。このプーリー、サモサより高いはずがない。従って4つ食べても8ルピーを上回ることはあり得なかった。実際、今まで何度もプーリーは食べつつけていたから、その相場はわかっている。お茶代など込みにしても10数ルピーが良いところだ。外国人相手に多少高めに言ってくる場合もあり、私も数ルピー程度なら大目に見て払ってきた。15ルピーならぎりぎり許容範囲だろう。そう予想して値段を聞いたところだったのだが、50ル ピーとなると「笑わせるな」という世界だ。
50ルピーもあればそこそこの店構えをしたレストランで一食食べられる金額である。15ルピーの間違いでないか、何度も聞き返し、不当に高いことを訴えたが、彼らはにやにや笑うばかりで一向に正当な値段を提示しようとしなかった。馬鹿にするんじゃない、私はついに癇癪玉を破裂させてしまった。

「わかった。50ルピーだな。」
私はそう言いながら財布から50ルピー札を出すと目の前で八つ裂きにしてばらまいてしまった。
インドのお金は柔らかく、何重に重ねても簡単に破れ、またおのおのが密着することもなく、それらはきれいにばらけ、紙吹雪のように大地に散らばっていった。

私はインドに負けてしまった。
彼らにとって50ルピーは大金だ。一日の稼ぎがその程度の人もいるわけで、安宿なら一泊泊まれることもあるくらいだ。それを目の前で八つ裂き。いくら彼らでもそれを張り直して使うわけには行かないだろう。私は彼らを屈辱した。
しかし心は一向にせいせいしなかった。苦い思いばかりが重く心にのしかかった。憎しみは憎しみしか生み出さない。私に欠けていたのは彼らが次ぎ来た旅行者に対してぼったくりをしなくなるような辛抱強さである。もう少し時間をかけて交渉するべきだった。その場では勝ったつもりでも喧嘩両成敗。実は双方負けている。

ともかくこの事件は一つの転機にはなった。それ以後私はたちの悪い事態に遭遇しても癇癪を起こすこともなく自分を制御する事ができている。あの時もう十分彼らを屈辱した、そんな思いは歯止めとして役に立ったし、彼らの理不尽さを責める前に自分もまた理不尽な行動をしてきていると反省する機会になったからだ。二度とインドに負けぬよう、つまらぬ喧嘩の土俵に上がぬよう鍛えて行こう、そう思った。

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