■タイトル バングラデシュ1(モンスーンの深部)
□文章作成 バングラデシュ・ダッカ
□作成日時 2003年7月8日▼概要
ミャンマーの旅を終えると私は閉じた国境をまたぐため、再度飛行機に乗りバングラデシュに降り立った。そして空港で夜を明かすと、コックスバザールまで一気に空路移動し、自転車の旅を再開。ダッカを目指した。▼異国
ほとんど異国を感じないと言ったら失礼に当たるかもしれないが、私は台湾から韓国、そして中国でもあまり異国にいるという感覚を感じなかった。もちろん言葉から文化から何もかも違うのだが、それでも多少底流までさかのぼると同じメンタリティーを持っているとしか思えないくらい違和感がなかった。それはたとえ強烈に汚い中国の公衆便所や最悪とも言える交通マナーを見てもあまり揺らぐことはなかった。それらはもちろん日本で許容される範囲を遙かに超えていたが、依然理解しうる特性を含んでいたように思える。それは自分の持つものの悪い点が誇張された人に接したときに感じる、近親憎悪に近い感覚でもあった。
ところがバングラデシュの空港に降り立った途端、全てがまた異国の中に包まれてしまった。それは皮膚感覚として理解の範疇を越えた「異国」だった。
空港内から好奇の目で見た人たちがぞろぞろとやってきて、無遠慮に話しかけてくる。何人なのか、どこから来たのか、名前は何か、これからどこへ行く、、、
当初は市内まで自転車で走り一泊するつもりだったが、時間も遅いのであきらめることにした。それでも彼らは懲りずにタクシーに乗れだの近くのホテルに行けだの果てしなく私を取り囲み質問責めにする。結局最後は全てが面倒になり、またどうせまた空港に来るわけだからと、ここで一泊させてもらうことにした。
ところがそうと決まっても今度はあそこに行け、パスポートを見せろ、チケットを見せろと、まだまだうるさく聞いてくるのだった。「頼むからほっといてくれ」私はそう言いたかった。
結果的に見ると彼らはさほどたちの悪い客引きでも無かったようであり、セキュリティーらしき人物は本物の警官だった。多少警戒しすぎた面もあった様だ。実際彼らは実にフレンドリーで親切心にも満ちあふれていたのだから。
ともかくミャンマーでも考えられなかったような「異国」に私は突如放り込まれてしまった。しばし慣れるまで辛抱するしかなさそうだ。ここはもうインド亜大陸なのだ。▼モンスーンの嵐
ここへ来るまでよく知らなかったことだが、モンスーンのバングラデシュでも実は地方によって雨の量がずいぶん違う。たとえば6月の降水量で比べてみるとダッカとチッタゴンで2倍近い差がある。従ってチッタゴンよりさらに雨の多いコックスバザールでは600mmに達しているに違いない。この数字は日割りにしてみるとわかりやすい。一日2cm降り積もる計算だ。
コックスバザールはまさにイメージ通りの雨期、まっただ中だった。曇っていたかと思うと大粒の雨が降り出し、30分降ってはしばらく休み、また1時間降り続いたりする。時に晴れ間がのぞくこともあったが、一日として雨の降らない日はなかった。
コックスバザールはビーチリゾートとして有名で、まあ私はビーチリゾートに行くような柄では無いのだが、どんなところかと思い行ってみると、とても海水浴をするような状態ではなかった。モンスーンの雨雲と、それの織りなす泥色の荒波が迫り、打ち寄せていた。画に描いたような雨期の光景だった。▼チッタゴンへ
雨続きで出不精になってしまったが2003年6月22日、私は雨の中チッタゴンへ向かった。初めての国を走る時、始めはいつも緊張する。しかしこの日ばかりはそれより雨の方が目下の課題であった。あわてて買った中国製雨合羽を着ていても1時間もすれば中までびしょぬれだ。
ちなみにいつも感じていることだが、雨具の重要な役割は防寒である。どのみち濡れてしまうのだ。着るかどうかの判断は暑いか寒いかにゆだねられている。
チッタゴンへのハイウェイは路肩こそ未舗装だったが、非常に状態が良く、走りやすかった。あいにく交通量も多く快適とは言えなかったが、意外と緩い起伏すらありサイクリングを楽しむことができた。とはいえこの国を走る醍醐味はやっぱり田舎道だろう。そこで途中から地図にも記載された一本西の脇道を走ることにした。
迂回路は途中から煉瓦道になってしまったが、想像よりもしっかりとしており、また交通量は皆無に等しく、とてもリラックスして走ることができた。しかしこの交通量の皆無という点が要注意であった。
バンスケリが近づくと道は徐々に頼りなくなり、湖のような田園地帯の中、取り残された土手道をさびしく走る状態になってしまった。煉瓦が敷き詰められ道路が高くなっているところでは問題ないのだが、工事が未完で低くなっている所には無数の水たまりが続き、水中を走っているような状態だった。そしてその道はちいさな小道に突き当たり、ついに消滅してしまっていた。
「チッタゴンへ行きたいんだ」
片言で地元の人たちに道を聞く。すると彼らは少し困った顔をしてから小さな竹橋の方を指差した。
竹橋は幅約1.5m長さ10mほどの小さな物で、事もあろうにその向こう側は静かに水面に没していた。見れば地元の人たちが腰まで水に浸かりながら恐る恐る水中を歩いている。
「それって冗談でしょう、、、」
まさかこの深さの道を徒渉できるとは思えなかった。引き返すしかあるまい、私は呆然となってしまった。
ところが村人はあきらめていなかった。そして非常に協力的だった。そして一人の屈強な男性を紹介してくれた。自転車を担いでくれるという。いや、それにしてもリスクが大きすぎる、などと考えていたら彼は私の指示を待つ間もなく早くも重量級の自転車を抱えだし、頭上に高く持ち上げてしまった。
こうなったら行くしかない。私も裸足になって水中に歩み入った。
彼は超人だった。近道なのか私とは別のルートを歩み、胸くらいまで水に浸かりながら、淡々と歩いていく。とても私にはできない芸当だ。こっちは腰まで浸かりながら多少の水流に流されぬよう、また非常に滑りやすい地面にバランスを崩さぬよう少しずつ進んだ。そして実際何度も転びそうになりながらパスポートの入ったフロントバックを抱え、祈るような気持ちで歩き続けた。30m位は歩いただろうか、ようやく私たちは対岸の道にたどり着いた。全てがこちら側に無事渡って来れたことが信じられないくらいの綱渡りだった。私はわずかばかりの心付けを渡し、自転車を運んでくれた彼に心から感謝した。
ところがこの冒険はまだ終わっていなかった。続いたのが最悪の泥道。自転車を押すだけで転びそうになる道が数百メートル続いていた。そして最後に丸木橋が待っていた。私は再び裸足になり、二人ががりで自転車を運んだ。もう悲鳴を上げてしまう世界だ。万一落ちたら濁流の藻屑。やはり雨期を甘く見てはいけない。
その後も橋の無いヶ所が何度か出現した。幸いそこでは小舟に乗ることができたが、あるリキシャドライバーはやはり腰まで水に浸かりながら強引な徒渉を断行していた。まったくとんでもない世界だった。
▼チッタゴンの引力
翌二日はすがすがしい天気に恵まれた。日本でも梅雨の間の晴れ間は美しいが、それはここバングラデシュでも変わらない。空高く空気が澄み、光り輝いていた。私はチッタゴンの東に広がる丘陵地帯を目指すことにした。ここには少数民族が住み、独自の生活が見られると聞いたからだ。ところが私は許可証を取らずに行ってしまった。
今は不要という情報と、まあ行けば何とかなるだろうと高をくくったのが失敗の元だ。しっかりと提示を求められ、追い返されてしまった。インチキでも何でもそれらしき書類を持っていけば通れたに違いない。でも時既に遅しだった。あきらめて戻らざるを得なかった。
普通に考えたらこれだけでずいぶん暗い気分になりそうだが、この日は本当に良い天気で、すれ違う地元の人々も友好的。ただ自転車で走っているだけで楽しかった。サイクリングの醍醐味ここにあり、である。
チッタゴンに戻るとオーストラリア人、そして日本人の旅行者にあった。こんなところで会うだけあってそれぞれ個性的で話はつきなかった。そしてまたまた出不精になってしまった。
6月26日、再度チッタゴンを出発した。今度はさっさと北上してダッカを目指す。ところが雨の中走り出して早20kmの地点で、今度はなんと日本人のカメラマンに遭遇したのだった。道ばたから急に日本語で声をかけられた時の驚きようと言ったら、なんと表現すればいいだろうか。いや、驚きと言ったらお互い様だった。彼にしてみてもまさか日本人が雨の中自転車で通りかかるとは思わなかったに違いない。
山田さんというその方はチッタゴン北部にある船の解体場をもう5回も来て撮影し続けているという話だった。船の解体場と言えば今日道すがら是非見てみたいと思っていたところだ。渡りに船とはこの事だろう。山田さんの案内で詳しく説明してもらいながら解体場を見せてもらうことができた。
曰くここには世界中の船が集まり、大型機械なしにトーチで切り出し、小さなウインチで牽引、さらにトーチで小分けにした後、人力でトラックに積み込まれ、廃鉄として出荷されているそうだ。しかしここへ来る船はタンカーなどオイルの残った危険な船も多く、実際油は垂れ流され、火災や爆発事故も頻発しているとのことだった。
お話の中で興味深かったことはそれが単に「過酷な労働環境」「環境破壊」「人権侵害」といったいわゆるセンセーショナルな内容にとどまらないことだった。むしろそれらを造船した側の日本の話や、世界経済との相関関係。危険を承知しながらも旧式の機械で解体させざるを得ない解体会社管理職側の話など、入り組んだ多面性を強調されていた。そして何より、ここで働く人たちが好きなんだ、と語る明るい笑顔が印象的だった。
私は車に自転車を乗せ、またチッタゴンへ戻ってしまった。
チッチゴンへ戻ると新たに出会ったもう一人の日本人カメラマンを加え、四人で楽しい時を過ごした。繰り返しになるがそれぞれ個性がはっきりしており、また歩むべき方向に時に悩みながらも進んでいる様子に非常に共感がもてた。そして話が全世界にわたり、非常におもしろかった。こんな出会いがあっては旅はやめられない。
でもそれも数日限り。そこでだらだらと馴れ合いの関係になって沈没していく人たちではなかった。それぞれがまたそれぞれの道に旅立っていく。たとえ雨でも旅立つ時だ。
▼コミラへ
チッタゴンを離れると私はメインルートでなく、一本東のルートをとった。しかしこの日は雨がひどすぎた。舗装の幹線路すら水没する状態で、その後に控えている脇道が通過できるようには全く思えなかった。急がば回れである。私はあきらめ、三度チッタゴンに戻り、そのままメインハイウェイを北へ向かった。
翌日は仏教遺跡で有名なコミラを訪れた。小さな博物館に入るといきなり美しく精巧な仏像が目に入った。展示されていたのは金剛薩[土偏に垂](こうごうさった)像だった。つまりここの寺院は大乗仏教で密教を信奉していたらしい。真言宗の高野山を思い出した。
この仏像は高野山で見た仏像と非常に良くにており、同じように金剛杵や金剛鈴を手にしていた。そしてゆったりとやさしい表情で構えていた。もちろんこちらがルーツにあたるわけで当然のことなのかもしれないが、それにしてもよく似ており、7〜9世紀という時代的なリンクも加え、非常に興味深かった。
私にとってなんとも味気なく見える上座部仏教の仏像に見飽きていただけに、それは生き生きとしており、かつ深遠で、光輝いて見えた。
遺跡自体はかなり無秩序に修復されてしまっているようだったが、想像していたよりも規模も大きく、またあの玄奘が訪れているとあり、感慨深いものがあった。多くが軍の駐屯地の中にあり、自由に見られなかった事だけが心残りだった。
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