■タイトル ミャンマー2(涅槃仏と諜報部員)
□文章作成 バングラデシュ・ダッカ
□作成日時 2003年7月5日

▼概要

ヤンゴンに数日滞在した後、私は夜行列車でモッタマへ移動。そこから自転車の旅を始めた。

▼夜行鈍行の冒険

政府の運営する国鉄に乗り、外貨(FEC)を払うことには気が進まなかったが、自転車という大荷物があることや、そもそもの鉄道好きには逆らえず、夜行列車に乗った。切符を買った時には体温を測らされた。SARS対策で、空港のみならず駅でまで外国人には検温の義務が科せられていた。これは気を抜いて風邪でもひいたら大変だ。どこへも移動できなくなる。
駅と車内は暗闇に包まれていた。そして親切な駅員の誘導に従い、自転車を手荷物として預け、サイドバック類を抱えて満員の車両に乗り込んだ。しかし、車内は本当に恐ろしい状態になっていた。ケチってオーディナリークラスにしたのが悪かった。文字通り足の踏み場のない車内は暗く、私の席にはしっかりと先客が座っておりどうにもにっちもさっちもいかない。幸い駅員が代わって交渉をしてくれた。外貨払いのチケットはエスコート料だな、そう苦笑させられたほどだ。
狭い木製の硬座は荷物に埋まり、私はその上で丸くなって夜を明かした。列車は走り出すと明るくなったが、止まる度にバッテリーがあがり、たった二つの裸電球ですらたばこの火に及ばぬようになるのだった。
そして遅かった。ほんとうにここまで遅い鉄道というのはなかなか想像できるものではない。速くて時速30kmがいいところである。そしてすさまじく揺れた。鉄道の方がバスより揺れなくて快適というのはこの国には当てはまらないらしい。縦横斜めに揺さぶられ、カタンコトンという音を子守歌に寝るなんて夢のまた夢だった。そして閉まらない窓。戦後混乱期の上京列車、そんなドラマのシーンそのままであった。実際この車両、日本の占領時代からそのまま使われているのではないかと勘ぐったほどだ。事実かどうかは確かめられなかったけど。
朝が開けると同行の軍人さんたちは終点を待たずに降りていった。少数民族との抗争のためだろうか弾薬らしき重そうな木箱を山ほど積み出していた。なるほど狭かったわけだ。
「ミャンマー軍人」なんて聞くと極悪非道なイメージが先行するけど、個人的に見てみればもちろん皆、いい人ばかりだった。飯盒にに積めた弁当を食べながら居合わせた女の子をからかったりして和気藹々としていたのが印象的だった。
終点のモッタマに着くと、私は一時間近く待たされ、ようやく我が相棒「ぴょん吉」に再会した。自転車が出てくるまでは胸が締め付けられるくらい不安だった。こんなところで盗まれたら一体どうして良いかわからない。無事出てきた自転車を受け取り、一見無愛想でもこの国の人たちはしっかりと働いているように思った。

▼巨大涅槃仏

モウラマインの宿で朝食を食べていたら、宿の人が手作りの観光ガイドを見せてくれた。
曰く近くに世界最大の涅槃仏があるらしい。世界最大と聞いては見に行かないわけには行かない。それにしても全長180mと書いてあるが、本当なのだろうか。にわかには信じられなかった。
片道は楽をして車に乗り、復路自転車でのんびりと半日走った。しかし聞いた場所の近くまで来ても何も見えなかったた。そもそも人口自体さほど多くなさそうな片田舎にそんなものがあるとは、やっぱり信じられなかった。
国道から東へ約1km。それは紛れもなく存在し、威光を放っていた。1991年に建築が開始され、13年目。工事は人力主体でのんびりと続けられていた。完成にはあとまだ5年かかるそうだ。
完成まであと5年と言っても外観はほぼ完成し、涅槃の姿を白日にさらしていた。全長180m、頭部で高さ約30m。8階建ての構造になっていた。実に大きかった。
内部は多くの部屋に仕切られており、仏伝の物語が実物大の人形で作られていた。まだほんの一部分しか完成してなかったが、実物大には小さな人形が持ち得ぬ独特の存在感がある。完成した日には兵馬俑の様な存在感を放つに違いない。
工事の都合だろうか、仏像には無数の穴があけられ、明かり取りの窓になっていた。その窓から身を乗り出して見たときの気分といったら、もうアニメーション映画の世界だ。無造作に張り巡らされた鉄筋による足場ごしに巨大な腕や顔が気球のような大きさで膨らんでいた。

大きければ偉いのか?これはいつも思ってきたことであり、今も意見は変わらない。日本には寺なんか無くていい、と言い切った僧がいた。それに対してミャンマーのあちこちで繰り広げられる大きさ競争に私は今も違和感を持ち続けている。
しかし、それにしても180mというスケールは抜きんでている。55m,70m,90mと徐々に巨大化していく涅槃仏競争ををしり目に、一気にここまで飛躍させてしまう発想は感動的だ。世界最貧国のこの国で、名もないような田舎町に出現しかけている前代未聞の巨大遺跡。そう、これは現代の遺跡なのかもしれない。

また夢ができた。五年後、私はThree Pagoda Pass を通り、タイから民主化された新制ミャンマーへ陸路国境を越える。そしてその先で待っているのは完成した巨大涅槃仏だ。そして今回行けなかったシトウェを経由してバングラデシュまで走ってみたいと思う。

▼雨止みの祭り

パアンの宿に泊まっていたら宿のおじさんが、面白いダンスが始まったから見に行くといいと教えてくれた。それは雨乞いならぬ、雨止みの祭りだった。どうやら地域の人がお金を出し合い、舞踊団を呼んだという状況らしい。楽隊と踊り手あわせて10人ほどの一団は狭い仮小屋の中で次々と踊りつづけていた。
言葉の問題もあり、詳しい背景については聞くことができなかったが、この国にまだ根強く残っていいるという精霊信仰(Nat)に関わるものらしかった。それは仏教とも習合しており、小屋には大きな仏壇も設置されていた。女装した若い男性の踊り手たちは音楽が始まると少女のようにはしゃぎ、トランスしたように踊り狂う。そして場が和んでいくに従い、彼らの振る舞いはどんどんエスカレートしていった。仏壇に備えられた花やお菓子をくすねて食べたり、酒を飲んだり他の踊り手や地域の人々や子供たちにいたずらをはじめた。さらに彼らの悪行は貪欲さと紙一重のおひねりねだりにもなった。地域のまとめ役の人が困惑しながらも小銭を彼らのはちまきのような衣装に挟むと喜んでまた踊りだすといった按配だ。
さらにはそのおひねりを踊り手同士で取り合ったり隠したりと醜い争いを繰り広げるのだ。もちろんそれらは半分仕組まれているようでもあり、トランスした精霊たちの悪戯の一部分であり、もちろん祭りの一部分でもあった。
非常に興味深く、また感心したことは子供たちの反応だ。彼らは素直に喜んで少女のような踊り手たちと遊びだしてしまった。

私は以前から民俗芸能に関心を持ち、日本で何度も実際の祭りを見に行っているが、それらと比べてみても今回のものは非常にすばらしかった。何より、日本と違い、120%生きた芸能だったからである。日本にも優れた芸能はいくらでもあるわけだけど、それとて幼い子供たちまでもを夢中にさせられるほどとは思えなかったからだ。
そしてもう一点、彼らの踊りがすばらしかった。プロとしておそらく子供のころから踊りつづけてきたのだろう、その体のやわらかさと自由さ、まわりの観衆との呼吸のとり方などどれをとっても悔しいぐらい完璧な仕上がりだった。そして繰り返しになるが、その祭りが雨止みという人々の願いと底辺で確実にリンクしていたところがすばらしかった。
日本でもかつてはここと同じように季節ごとに祭りが行なわれ、世代を超えて人々が楽しみ、ひとときの無礼講を楽しんでいたに違いない。しかしそれは過去のものとして消え去り、今は限定された形としてのみ部分的に残っているに過ぎないのである。
一方、ミャンマーではそれは今も生きた祭りとして、季節の営みとしてしっかりと続けられている。この国は実は恐ろしく豊かなのかもしれない。またそう感じさせられた。

▼最高の道路を北上

モウラマインを後にすると私はゴールデンロックで有名な身延山のような聖山チャイクトへ寄ってからバゴーへと駒を進めた。バゴーでは珍しく自転車を置いてリキシャを雇って町を観光させてもらった。インド系のそのドライバーは非常に控えめで感じが良く、たばこ工場や鍛冶屋なども順よく見せてくれ、非常に楽しかった。そしてバゴーを後にすると今度はミャンマー一良い道路と噂された国道二号線を一路北上した。当初は一号線を走るつもりだったけれど、あまりの状態の悪さと交通量の多さに予定を変更したからだ。なるほどミャンマー一を誇るだけあって道は「比較的」スムーズで交通量も割と少なかった。
これは一説にはネ・ウィンの出身地をまたいでいるからだそうだ。
しかし状態が良かったのはピエイまでであった。その後は時折橋のない川を渡らねばならないことが多々あった。通常は問題のない涸れ川なのだが、スコールの直後には状態が一変し、徒渉を余儀なくされた。もう一度書こう。国道二号線での話だ。泥と砂にまみれながら、やっぱりミャンマーを甘く見ることはできないと感じた。
もっとも心配していた雨期による雨は思ったほど深刻ではなかった。雨が降ることは多かったが、たいてい1時間前後で止み、一日中降り続けることはあまりなかったからだ。そしてひとたび雨が上がるとたとえ曇り空であったとしてもかなりの乾燥力を発揮し、全てがカビつくようなことにはならなかった。かえって暑すぎるより良かったかもしれない。

▼ローテクの諜報部員

バコーからピエイへ向かう途中、非常にタイミング悪くパウンデという町で泊まらざるを得なくなってしまった。
パウンデという田舎町はこの国のかつての独裁者、そして現在も陰で全権を握っていると言われるネ・ウィンの出身地なのだ。パウンデが近づくにつれ、青い服を着た見慣れぬ人影が多く見られるようになった。何がうれしいのか国道沿いや鉄道に沿って不穏に歩き回っていた。
そして最後、ついにその中の一人が私を止め、片言の英語で
「パウンデには泊まれません」
と語った。
この手の人には権限が無いので話すだけ時間の無駄だ、適当にあいずちを打って先へ進む。すると彼らは無線機も携帯電話も持っていないせいだろう、忙しそうに二人乗りのオートバイで私を追い抜いて行った。
なるほどパウンデに着いてみる数人が私の到着を待ちかまえていた。言われた事は同じ。
「この町には泊まれないからピエイまで行くように」
しかしこの日私は事もあろうに150kmも走っていた。体力の限界だ。絶対に宿はあるはず、だからまた例によってハイハイと適当に笑ってごまかし、先へと進んだ。
宿はもちろん存在していた。地元の人に聞けば簡単な話だった。ところが御丁寧にも彼らは尾行してくれていたらしい。再び見つかって問いつめられてしまった。
うそをつく気は更々ない。
「宿は無いようなことをあなたは言ったけど、あるらしいから探しているんだ」
そう答える。
「もう疲れてくたくたなんだ。次の町までなんか行けないよ。」
これは全くの本音だ。

彼は内実いい人だったに違いない。仕方がないと、苦笑しながらも私をゲストハウスまで案内さえしてくれたのだった。
ところがいい人かと思って油断した途端、今度は
「あいにく満室だ。」
と見え透いた嘘をついてくる。そんなの子供だましに引き下がる気は無い。地面に寝るからお構いなく。そう笑い飛ばし、粘った。
この手の事態に笑う余裕は本質的に不可欠だ。どんなに腹を立てても笑いながら相手の許容範囲に探りを入れる。相手の許容性がいかほどかを見極めなければならない。
結局3,40分くらいあれこれ押し問答をしつつ状況が変わるのを待つと、ようやく一泊の許可が与えられ、厳重にバスポートのコピーを取られた上、部屋に入ることが許された。
シャワーを浴び、洗濯をしていると宿に泊まっているという3人組が食事に誘ってくれた。
応じない手はない、一緒に中華混じりのミャンマー料理に舌鼓を打った。彼らはいい店をとてもよく知っている。実においしかった。心ゆくまで満腹させてもらった。こんな町でも親切な人いるんだ。ちょっとうれしくなった。

翌朝、雨はしとしとと降り続いていた。しばらく雨が止むのを待ったが、私は結局あきらめて雨の中出発した。そして出発早々にして一台のバイクに尾行されていることに気づいた。
「おいおい、尾行ならもう少し気づかないようにやってくれよ。」
二人乗りのバイクは雨の中びしょ濡れになりながら不審人物の外国人を追い続けていた。
こちらがスピードを落とせばあちらも落とし、ペースを上げると向こうも引っ付いてくる。あまりにも露骨だった。
結局しびれを切らしたのは私の方だった。あきれ顔で声をかける。
「ミンガラーパ。一体どこまで行くのかい?」
ごにょごにょと答えた彼らの顔を見て驚いた。なんか見覚えがあると思えば、一人は宿の支配人、もう一人は昨日からつきまとっている諜報部員だったからだ。まったくご苦労な話だ。
彼らは僕と多少会話を交わすと、私の行き先に嘘がないことを納得したのかようやく帰っていった。雨の中大変だ。
そうしてふと昨日の夕食を思い出した。若い3人はヤンゴンから仕事で来ていると言っていたけどそれにしては妙に土地慣れしており不審な点が残っていた。体よく監視されていたんだな。妙に納得してしまった。
それにしても何を一体恐れ、活動しているのだろう。その気になればこんな子供のスパイごっこのような諜報網をすり抜けるのには何の問題も無いだろう。それでおいて無関係な外国人旅行者を追い回し時間と労力を浪費している。暇を持て余し、規則に従って「諜報活動」に従事してるのはよくわかるけど。その労力をもう少し別な方向にかえられないものだろうか。

▼外国人お断り

ミャンマーには外国人を泊めていい宿と、泊めては行けない宿が存在している。このお節介な制度はばかげた苦労を旅人に強いていた。
日が暮れてようやくたどり着いたKyaukPadaungには外国人を泊めていい宿が存在してなかった。とりあえずたどり着いた宿の主人は迷惑そうに警察に行け、と言った。仕方がない。たまには警察のやっかいになるのも経験だと思い、不気味に「May I Help You」と掲げられた警察の門をくぐった。
驚くべき事に地元の人にあれだけ煙たがられている警察は実に親切だった。しかしこの町に外国人を宿泊させられる宿が存在していない、という事実までを変える事まではできない様だ。30分ほど待たされ、結局最後に彼らが選んだ手段は、
「あなたは今晩その宿に泊まり、明日の朝バガンへ出発します。」
という言葉だけだった。要はもう夜も遅いし今回限りだから目をつぶりましょう、という事だ。なるほどこの国らしい解決法だと妙に納得して宿に戻ったが、なかなかチェックインさせてくれない。結局のところ許可を示す書類がないから泊められないとのことだった。
これには驚いた。「制度」を警察より市民が厳格に守ろうとしている。一体どこにそんな国があるだろうか。もちろん何か言いがかりをつけられた際に書類上警察の黙認を示せない以上、身を守るには外国人を泊めないに越したことがない。つまり警察や政府への不審が市民をかたくなにして、警察にさらなる対応を求めていると言える状況だった。これはいささか滑稽だ。
再び警察に行った。
「泊まらなけりゃいいんでしょ。徹夜して歩いてバガンにでも行くよ。」
そんな冗談を言い、続いて起こることを待った。
結局警察は別な宿を今度は書類付きで紹介してくれた。そしてご丁寧にも再び私を案内し、送り届けてくれた。宿に着いて書類を宿主に渡す。その時宿主の彼らが見せた真剣な表情が今も鮮明で忘れられない。
疑心暗鬼を生ず。口約束は信じない。この国に根付いてしまった不審の根の深さを私はかいま見た。

改めて「May I help You」の看板を思い出す。この言葉に嘘はなかった。彼らは実際、親身で事態の解決に走り回ってくれたと思う。制度というかせにはめられ、市民からは煙たがられてがんじがらめになりながら。パウンデの諜報部員然りである。
疲れ切った体で2時間もたらい回しにされたのには疲れたけど、この国の病理を少しだけ体感することができた。こんな出来事も貴重な旅のワンシーンである。

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