■タイトル ベトナム縦断
□文章作成 カンボジア・プノンペン
□作成日時 2003年3月28日
▼概要
ハノイでしばらく過ごした後、私は一路ベトナムを南下した。道は良く、真っ平らで、しかも後半は信じられぬほどの追い風で高速で走り続けた。
途中フエとホイアンでは古い町並みを楽しむこともできた。▼ハノイにて
残念ながら私にとってハノイはいやな思い出のたくさん詰まった所になってしまった。話が前後するが、北西部の山岳地帯を走り終え、ハノイに戻ってみると宿に預けていた荷物が開けられ、一部の物品が盗まれていた。安易に信用の置けないところに置いておいた自分が悪いのだが、ほとほと嫌になった。しかもせっかく持ってきてもらっていた新しいチェーンリングが無くなっていた。こんな事なら早々に交換しておけば良かった。さらにCannondale(私の自転車のブランド)のヘッドショック専用の工具も見つからない。あんなもの盗んで一体何になるのだろうか。
しかし誰も泥棒の考えていることを知ることはできないのだ。今回の出来事で私は他人にとって無価値だから盗まれないだろうと言う希望的観測は全くあてにならないことを知った。泥棒は何であれ盗みうる物なのだ。そして困るのは自分だ。
今回非常に幸いだったのはPDAが盗まれなかったことだ。一番高価そうな物だったのになぜだろうか。逆に不思議になったくらいだ。それにしても宿を信用した私が愚かだった。
さらに秀霞の帰国後、私は原因不明の熱を出してしまった。一つ原因が考えられるとすれば、数日前食事中に魚の骨を喉に深く刺してしまった事であろう。咳、鼻炎など風邪に見られる症状が一切無いにも関わらず熱だけは高く上がり、化膿したのか骨を刺した左喉の奥だけが痛んだ。幸い数日寝込むと自然と治ったが。
そして最後には無気力が襲ってきた。この手の浮き沈みはある程度不可避かもしれない。
ただ時が解決してくれるのを待とう。しかしそれでも解決しなかったら走ることだ。以前大学の先生が運動は精神的な疲れを肉体的な疲れに変換することができると言ってたっけ。▼ひたすら南下の日々
特筆することは何もない。ただ日程的にタイトだったのがつらかった。ビザは延長手続きをしていたがそれでも一月弱で約2000kmの距離を走りきるのは容易ではなかった。まっ平らとはいえ、毎日120kmほどを走り続けたのもハードだった。特にフエへ着いた日には170km近くを走った。
幸い国道沿いだけあって道中食堂を探すことは非常に容易だった。しかし後述の通り、私にはMGS拒否反応という大きな問題がある。そこで食堂の探し方は中国のそれとは全く逆になった。つまり人の多く入った店でなく、疲れて閑散とした店を探すのだ。と言うのは、人の多い店では既に調理された物を売っている場合が多く、また忙しいとMSGを入れないように頼んでも理解してくれないことが多いからだ。そのため暇を持て余している店に入り十分説明して、MSGを入れないように再三頼んでから調理してもらうのだった。
それからもう一つルールを決めた。決して客引きをしているような店には入らないことだ。これはベトナムで不幸にも頻発するツーリストプライスを回避するのに非常に効果的だった。逆に言うと客引きをしているような店ではしばしば通常価格の1.5倍から2倍を請求された。まったく腹立たしい。食べる前に確認してもごまかそうとする店まであり、いつもイライラさせられた。毎日同じ物を売っているもののはずなのに私が値段を聞くと奥にいる主人にいちいち値段を聞きに行くの事からして信用を失うには十分だった。▼古都フエ
フエはいい町だった。真っ先にこんな話をすること自体に倒錯を感じるが、比較的ツーリストプライスが少なかった事に好感を持った。一番身近な飲料水にしても値切らずとも1.5リットルで相場の5000ドン(40円)と言われることが多かった。
そしてなにより何重にも張り巡らされた堀とその歴史ある町並みの中で暮らす人々の姿が印象的だった。暮らしぶりは変わり続けているのだろうがそれを静かに見守るかのように古い運河と城壁がこけむしている。
旧王宮付近も美しかった。青々とした芝生が広がりアオザイ姿の高校生が自転車で楽しそうにおしゃべりしながら行き交っていた。平和を画に描いたような風景だ。しかしここフエはベトナム戦争時には激しい戦闘で一万人以上の犠牲者が出たそうだ。今ではそんな歴史が詰まっているとは信じられないくらいだ。▼ホイアン
有名なHaiVan峠を越えるとかつて日本人街のあった古い町並みの残るホイアンへ行った。
ホイアンにはその名も日本橋(遠来橋)という屋根のある橋や、日本人の墓が残っていた。解説曰く、鎖国令に従い日本に帰国しかけた「谷弥次郎兵衛」はホイアンに残した当地の恋人が忘れられず、途中で引き返したものの病に倒れてしまったそうだ。小さき人々の人生の一つ一つがこんな街の片隅に無数にしみ込んでいる。
「日本橋」は当時日本人街と中華街を結んでいたそうだ。様々な文化を橋渡しし、今も地元の人々に利用され続けているその姿は地味でも根はしっかりと深い、民間外交の象徴のように思えてならなかった。▼チャンパ
ホイアンからは日帰りツアーでミーソン遺跡を訪れた。パッケージツアーには極力参加しまいと思っていたが時間の都合に加え、値段に負けてしまった。行きのバスに帰りのボート、軽食、飲料水ボトル、ツアーガイドまでついてたったの3$だったからだ。これはかなりリーズナブルだ。
遺跡は8〜13世紀のチャンパ寺院などの跡だったが、かなりが破壊されてつくしており、残念な状態だった。原因は各国による略奪に加え、主に米軍の爆撃による。
さて、「チャンパ」と言っても一般の人にはぴんとこないだろうし日本とのつながりも全く無い気がするだろう。しかし何気なく広辞苑を引いていたら意外な発見があった。曰く、チャンパは「占城・占婆」とも書かれ、チャボ(矮鶏)の語源になっているそうだ。あいにく本場のチャボは確認できなかったけど、それを知ってからチャンパをとても身近に感じることができるようになった。
チャンパは2〜15世紀に繁栄し、アンコール(カンボジア)、バガン(ミャンマー)、アユタヤ(タイ)、ボロブドール(ジャワ)などの文明と同様にインド文化の影響を強く受けている。そのため主にヒンズー教であり、サンスクリット文字系統の独自の文字も持っていた。これはまだ解読されていないそうだ。
チャンパの遺跡を見て即座にわかることは明らかに現在のベトナムの文化とは異質であること。事実当時のベトナムはHaiVan峠の北側にのみ分布し、その後次第に南まで領土を広げていったという。
少しづつインドが近づいている。そんな事実を肌で感じる事ができた。ここはその最初の場所として記憶に深く残るだろう。▼ホーチミンシティ(サイゴン)
ホイアンからもハイペースな走行は続いた。特筆するような事は無く、つつがなく毎日走行を続けた。ただ、ひとつ予想外だったことはサイゴンが近づくと一部にかなり乾燥した地域があったことだろう。ベトナムの沿岸はどこも田圃が続いているかと思ったら大間違いだ。アフリカのような灌木や藪のみが続き、羊の遊牧なども見られた。
ついでに言うとCaNaの近くと、Hueの北側では何とも言えぬ不可解な雰囲気を植生の中に感じた。言葉では説明しにくい感覚的な物だが、妙に高木や草が少なく不自然さを見た。そこで枯葉剤の影響が残っているのではないかと勘ぐったのであるが、本当かどうかは確かめられなかった。ただ博物館(後述)で地図を見た限り確かにそれらの地域でも枯葉剤は使用されていた。従ってまんざら深読みでも無いかもしれない。
ホーチミンでは中国で会い、ハノイまで一緒に走ったMeikeとUweに再会した。二人とも元気そうだ。今後日程が合えば、またしばらく一緒に旅ができるだろう。それから「ベトナム戦争証跡博物館」も印象深かった。この手の展示としては「比較的」平静であり、事実のみを追おうとしていることがうかがえ、好感が持てた。欲を言えばなぜこのような悲惨な戦争に突入することになってしまったのか、どうすれば回避し得たのかという分析がほしい。それを一部の解説文に見られたように「米国の侵略」と一言で片づけるのは易しいかもしれないが、それだけでは未来への礎にはならないだろう。当時喧伝された「大義名分」の欺瞞や独善を見抜く「鋭い目」をこそが現在(!!)、あるいは今後起こるかもしれぬ事態へ対処する上での礎になるのではないだろうか。▼ベトナム語と表記
文化だけでなく言葉も国境を越えるとがらりと変わるが、それでも相違点がたくさん見つかることがおもしろい。ベトナム語は6つの声調があり、フランスのアルファベットに声調記号を付けたような文字を使っていた。この点は外国人にとっては取っつきやすい言葉だ。曲がりなりにも看板を読み、識別できる利便性は計り知れない。しかししばらく旅して行くに従って、この国の言葉に無数の中国語語源のものが混じっていることを知った。
道路脇には「Chu/ Y/」の看板が多く見られた。これはどうやら「注意」らしい。それから「〜Thai/ An」なんて看板も多かった。これは「〜泰安」だ。トイレへ行けば「Nam」「Nu~」の表示。明らかに「男」「女」から来ている。我が敵「Mi~ Chinh/」も「味精」である。
こうなってくると全てアルファベットの表記にもどかしさを感じてくる。漢字なら一発で理解できるのに。
韓国でも感じたことだが、中国語語源の語彙を音だけで表現するのには無理がないだろうか。それは日本でカタカナ乱用の外来語がまぎらわしい状態に近い。なんとか漢字仮名交じり文みたいな形態にできない物だろうか。
もっとも日本が漢字仮名交じり文を採用せざるを得ない原因には音節の種類が少なすぎ、声調も無いために同音異義語が頻発しすぎている点にある。従って全てをひらがな表記してしまうと著しく理解が困難になってしまうのだ。日本語では日常会話でさえ時に「こっちの漢字の方の意味ね。」なんて付け加えなければ会話が成り立たないくらいだし、地名や人名に至っては細かく説明しない限り正しく伝えられないのだから。
話が脱線しすぎてしまった。漢字の使用はともかくとして、それでもこの国に独自の文字がないことは残念であり、ベトナムにとって陰となっているような気がした。ベトナムには長年の中国による支配、そしてフランス時代のため、自らの文化を熟成させる十分な時間が与えられなかった。常に外国文化におもねるより生き延び得なかった。だからやむ得ぬ不幸なのかもしれない。しかし、それにしても「全てが借り物」という印象は文字に限らずしばしば感じることがあった。▼「味の素」の国
ベトナムに入り、フォー(米で作ったうどん)を食べたとき、すぐに味の変化に気づいた。
スープの味が妙だったからだ。化学的な不自然さを感じ、飲みかけた汁を吐き出した。
以前から東南アジアの味覚破壊について多少聞いた事があったがここまでひどいとは思いも寄らなかった。いわゆる「グルタミン酸ナトリウム」「化学調味料」の問題である。
なお、日本での名称はいつからか「うまみ調味料」という名前に変わったそうだ。確かにこの調味料の原料は石油ではなくサトウキビや砂糖大根であり、それらに酵素反応をさせ、蒸発、精製されている。だから、天然のものと言え無くもない。加えてグルタミン酸ナトリウムは天然にも多く存在しており、主に昆布のうまみの元になっている物質だ。だからそれ自体は害のある物でもないし、発ガン性なども確認されていない。
しかしそれでもなお、それは精製された純度の高すぎる塩が不自然でおいしくないのと同じで、やはり人工的で不自然な調味料だと思う。
なお、英語ではMonosodium GlutamateからMSGと略されている。中国語では味精だ。ベトナムでは中国語から入ってきたらしく「ミーチン」と呼ばれていた。
MSGが無害な精製物だったとしても、使う量には限度がある。彼らの使っている量は尋常とは思えなかった。小さなお椀のフォーに小さじ一杯ほど入れる。ゆで野菜然り。シンプルなはずのゆで野菜が気持ち悪いほど薬漬けだ。あるいは調味料として小皿に出されるヌョクマムに直接添加される。
私は決して味覚に敏感な方ではないと思う。実際には日本でもMSGが多く使われているにも関わらず、いままで気づいたことも辟易した事もなかった。しかしベトナムのそれは想像をはるかに絶していた。
実際幅1メートル位しかない売店ですら白い結晶状のそれは売られていた。小さな瓶詰め等は存在しない。通常最低でも250gの袋詰めからである。大きな町へ行けば10kg,20kg詰めが巨大なずた袋で売られているから呆れてしまった。それほど消費されているのだろう。
テレビを付ければ「♪AJI-NO-MOTO〜」という食卓を囲んだ一家団欒のCMが音楽付きで流れていた。あー、もう勘弁してほしい〜、、、
もちろん銘柄は「味の素」に限らない。韓国、タイ、フランス系など多種多様な銘柄があった。
MSGが有害か無害かは知らないが、とにかくあの独特の匂いと味はとても気持ちが悪い。ビニールでも食べている気分になる。最悪だ。
もちろんこれに気づいてからは例外なくMSGを入れないように断っている。この効果はてきめんで、非常に不味い、と思っていたベトナム料理の多くが実は元々は美味しいものであることも知った。全ての根元はMSGにあったと言っても間違いないだろう。
さらにしばらくベトナムにいてわかったことだが、当初苦手だと思っていたヌックマム(魚醤油)も実は独特の香り以前に添加されている大量のMSGに嫌悪していたことが判明した。
時々まっとうなヌックマムに出会うと抵抗無く食べられるからだ。まったく何から何まで味覚破壊が進んでいる。限度を超していやしないだろうか。
しかし問題はMSGに限らないのかもしれない。細心の注意を払いMSGを回避しようと努力しても、まだまだ料理が薬臭いことがあった。これはどうやら肉に保存料が過剰に添加されているせいらしい。缶詰でもまだましじゃないかと思うような肉を出されたときには突き返したくなった。どうしてこんなにケミカルなのだろう。
市場に行ってみればしばしば肉に真っ赤な着色料を塗りたくっているのを見かけた。食堂でもオレンジ色に染まった肉や卵が出てきて驚かされることが多かった。あまりに過剰ではないだろうか。
まあ「毒には毒を」で口直しにコーラを飲んでいるようでは説得力に欠けるだろうけど。
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