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■タイトル 仏教史跡を追って □文章作成 インド・デリー □作成日時 2003年9月1日 ▼概要 日本に始まり、私は特に仏教に関するものを追いながら旅を続けてきた。その旅もここインドでひとまず終わりを迎えようとしている。 再度お断りして置くが私は仏教徒でもなければキリスト教徒でもない。いわゆる「無宗教」な人間だ。ただ日本に興味を持った時点から仏教の世界に関心を持つことになった。そしてその終着点が、ここインドだ。 ▼これまでの歩み インドの話に入る前に今一度今までどんなところを見ながら旅してきたがおさらいしてみようと思う。 まずは日本。信心深さを感じた日蓮宗の身延山、シンプルでいて暖かみのあった浄土真宗の本願寺、そして美しい東西の塔と玄奘信仰とでも言うような奈良薬師寺。きらびやかでおどろおどろしさを秘めた密教の高野山。 海外に出てからも道教と習合した鮮やかな台湾のお寺、韓国でも地味でも静かな魅力ある寺院へ訪れた。中国では開封から洛陽の白馬寺。そして西安の大雁塔。 玄奘三蔵の墓塔も訪れたし、浄土宗の始まったお寺も見た。 一方ベトナムに入ると雰囲気ががらっと明るくなった。しかし今思えばそれでもまだまだ中国の影響が非常に強いものだった。今度はカンボジアに入る。一転して上座部仏教の世界。木造の建物は石造りの塔に変わった。しかしアンコールトム・バイヨンを見れはその昔ここに大乗密教も根付いていたことがわかるだろう。しかしそれらはヒンズー教の影響を色濃く残したものだった。 ヒンズーの影響を残した上座部仏教といえば、現在のカンボジア仏教をはじめ、タイの金ぴか寺院も変わらなかった。さらに西へ進むとミャンマー。ここには今なおストイックな形態の上座部仏教が脈々と続いていた。背面にはミャンマー独自の占星術やら精霊信仰が見え隠れしていたけど、それにもまして純粋に仏の道を歩もうとしているようだった。 そしてバングラデシュ。もうここまで来ると仏教の残像は遺跡の中にかろうじて残っている程度だ。玄奘三蔵が訪れた僧院。煉瓦の山。しかし博物館で見つけたものは密教の金剛薩た像だった。 ▼時代の潮流 ここに来て一つの時代の流れがありありと実感させられた。当時大乗仏教、密教はインド北部で大変な繁栄を極めていたに違いない。その時代玄奘が訪れたのは決して偶然ではなかったのだろう。最先端の思想として玄奘はそれらを吸収し、中国へ持ち帰った。そしてその波は日本における仏教の興隆の波とリンクしている。改めてやはり玄奘三蔵という人物は大変な偉業を成し遂げたと言っていい。 彼が国禁を破ってインドへ旅立たなければ中国、そして日本の歴史は大きく変わっていたかもしれないのだから。 この後書くようにインドの仏教はもうほとんど滅亡していた。残るものは遺跡のみ。しかもその解説を見ると玄奘ばかり登場して驚かされた。なるほどそれ以外は文献すら残っていないのだろう。インドにおける仏教の断絶を物語る反証とも思えた。 ▼インドの仏教史跡を巡って ガヤ周辺では仏教史跡を見て回った。まずは玄奘が5年間も滞在したというナーランダを訪れた。現在は遺跡というか公園になっており、お世辞にもさほど魅力のあるところとは言えなかったが、それでも部分的に当時の寺院跡も残っており、また規模の大きさは大変な物で当時をしのぶことができた。それにしても自転車もなかったような時代に、よくこんな所まで歩いて来たものだと思う。そして語学を修得し、教典を持ち帰り、怒濤の勢いで翻訳したとは信じられない話である。 自転車の場合、歩く場合の約3〜4倍効率が良い。道が悪けれは今自転車で旅することと比べて5倍、10倍と手間と時間をかけ玄奘は旅したと言っていいだろう。そう思うと、それだけでもたいへんな偉業だと驚愕させられる。 ▼ラージギル 続いて私はラージギルを訪れた。ここはゴータマシッダールタ(歴史上のブッダ)の時代、マガタ国の首都・王舎城があったところだ。従って仏伝物語の舞台が多く残っている。詳しくは省略するが、ビンバシャーラ王、アジャッセ、そしてもちろん霊鷲山(りょうじゅせん)などにまつわるゆかりの地があちこちに残っていた。また旧王舎城は天然の山岳を利用した構造になっていたことが良くわかった。 霊鷲山は釈迦が法華経や般若経を説いたところと言われているそうだ。一体どんな険しい山並みで、また鷲に似たような岩峰がそびえているのかと期待したが、実際には比較的なだらかで、特筆するような自然環境ではなった。むしろ旧王舎城の外れに城壁のようにしてそびえる身近な山だったことが理解された。私たちは何かと劇的なものを想像しがちだが、人間・ブッダはたまたま手近にあった山に登っただけだったのかもしれない。 ▼日本山妙法寺 霊鷲山には現在、日本山妙法寺の仏舎利塔などが建てられていた。そして続々とインド国内から集まってくるヒンズー教徒たちが詣でていた。 正直に言って始め突拍子もない感じがした。本家インドのお寺は霊鷲山には無く、あったのが日本のお寺。そして延々と「南無妙法蓮華経」を日本語で唱え、太鼓をたたいている。そしてその意味を知ってか知らぬか非常にありがたそうにヒンズーの人々が来て祈りを捧げていたのだった。 聞いてみるとかつてここには何も寺院など無く、非常に閑散として訪れる人すらいないような所だったそうだ。それを見た日本の僧侶が見かねて仏舎利塔を建立した、という流れらしい。ちなみに日蓮は東で育った仏法がインドの地に帰り広まる、と予言されているそうだ。そんなことからインドにある日本のお寺は日蓮の流れを汲んだものが多いようだ。 それにしても建立から約30年。毎日欠かすことなく太鼓をたたき御題目を唱え続けているとはこれまた信じられないような話だった。 私は仏教徒でなければ、まして日蓮の教えを信じているものでもない。だからその「お題目」に一体どのような意味があるかは分からなかった。もちろんその疑問がまた出発点でもあるのだろうが。 いずれにしても強い信心だけはしっかりとインドの人々にも伝わっているようだった。 ▼洋の東西 話は脱線するが、お題目に限らず東洋の宗教的真理というのは得てして突拍子もない。色即是空にしても南無阿弥陀仏や悪人正機説にしたって禅問答みたいなもので非常にわかりにくい。それがいかなる自問自答や修行、瞑想の中から生まれてきたかは抜きにして、答えだけが唐突に提示される。理屈っぽい私からしてみれば、「一体どうやって信じろと言うのか」と聞き返したくなるくらいだ。でも信じてみないとわからないと言う事もまた真実である。信じるものは救われる、とはよく言ったものだ。 西洋のものは得てして辞書のように全てを網羅することに努力が注がれている事に気がつく。ロンリープラネットのガイドブックも然りで、またそこが気に入っている所なのだが、とにかく一冊ですべて足りるものでなければならない。考えてみると聖書にもその傾向があるのではないかと思い当たった。牧師さんのお説教の様子を映画なんかで見ると、それは字引を引きながら語っている感じがする。悪く言えば注釈と引用だらけの論文みたいだ。そこには、少なくとも論拠と論旨を結ぶ論理性だけは存在している。 一方洋が違えば秘伝秘技の理屈抜きの世界だ。仏典は際限なく乱立し、どの翻訳が正しいかすら良くわからない。そしてそれらを読み切ること自体不可能かと思える。そして聞くと例のごとく難解な真理が唐突に提示されるのみなのだ。 してみると私みたいに理屈っぽい人間は、玄奘張りに仏典を読みふけり自ら秘伝秘技に到達するか、あるいは来世は阿弥陀様に丸投げして浮き世を漂うしか無いのかもしれない。 ▼仏舎利 インド・ニューデリーの国立博物館で仏舎利を見た。そう書くと何でもないことのように見えるかもしれないけどこれは大変なことだと思う。仏舎利、ブッダのお骨だ。その本物のお骨自体が公衆の面前に展示されていたのだから。キリストのお骨とか、マホメッドのお骨とか、想像したことがあるだろうか。それに相当するくらい大変な遺物、その仏舎利はこともなげにガラスケースの中に収っていた。火葬と言っても温度が低かったのだろう、今なおずいぶんしっかりとした形を保っていた。これこそがブッダの存在自体を実証した遺物そのものなのだ。 実は仏舎利は世界各地に分散して残っている。日本にも名古屋にタイから分骨されたものが保管されており、今回の旅の途中で見に行ったが、もちろんお骨を見るなどと言うことはとうていかなうはずもなかった。それどころか仏舎利塔自体に近づけないくらい厳重だった。 いつも思うことだが、もしこれが他宗教だったら何が起こっているだろうか。もしキリストのお骨が博物館に陳列されたら、そんな想像をするとなにか恐ろしい事態に発展してしまいそうな不安を感じる。 アフガニスタンのバーミアンの石仏が破壊されたとき何が起こったか。世界中の仏教徒はこぞって遺憾の意を表したが、それだけだった。私はその事実をある種誇らしい気持ちすら持ちながら聞いたものだ。たかが石仏ではないか、あるいはたかがブッダの遺骨ではないか、そんな声が私の心の中でこだまする。大切なものは石像や遺骨なんかではない。石像一つでアフガニスタンに平和が訪れたとは思えないが、少なくとも世界に目を向けさせる役には立った。それで良いじゃないか。 そんな仏教徒の良心が反語的に小さなガラスケースに顕れているような気がした。 | TOPページ | コラム |
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