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□題名 隼人、そして神話の奥地へ □送信場所 沖縄県那覇市 □送信日 2002年6月6日 ▼隼人(はやと)とは 現在「薩摩隼人」という言葉は薩摩の武士の異称として用いられ、敏捷で勇猛な鹿児島県出身の男子を指して用いられている。しかし、本来「隼人」は南九州に住んでいた先住民民族を意味していた。 「隼人」という名前は奈良時代に使われ出した比較的新しい言葉で、最近の説では中国の四神思想との関連が濃厚と指摘されている。 四神とは四方位を司る神のことで、北は玄武・亀蛇、東は青龍・交龍、西は白虎・熊寅、南は朱雀・鳥隼として表したそうだ。日本でも高松塚古墳の壁画に書かれた四神の姿が有名だ。また平城京、平安京ともにこの四神相応として北に丘陵、南に窪地、東に流水、西に大道である地相のいい場所として選定されている。 前置きが長くなったが、そんなことから南方を守る者を隼人と呼ぶようになったらしい。そして一部の隼人は畿内に移住させられ、主要道や朱雀門などを守る仕事をさせられていた。 彼らに特徴的だったのは「犬吠え」という叫び声だ。律令国家はその呪力により悪気を退散させる事ができると考えていたらしい。実際京田辺にはオオスミ、吉野にはアタという地名が残っていた。京田辺には隼人舞も伝わっているそうだ。なお、同名の地名が今も鹿児島県にあることは言うまでもない。 ともかく隼人は律令国家に無理矢理組み込まれ、朝貢や移住を強いられ、服従させられた。それは端的に言って侵略であった訳だし、実際720年にはそれに対する反抗として国守が殺される事件も起きた。結果、一年数ヶ月に及ぶ戦闘が勃発し、隼人1400名の死者・捕虜を出したりしている。その犠牲者の霊を鎮めているのが鹿児島県隼人町で見た「隼人塚」だ。石造りの仏教式の塔で鹿児島神宮例祭と関係が深いと言われている。塚は復元されすっかり小ぎれいになっていた。 ▼蝦夷(えみし)との比較 今回旅をしてみて、改めて奈良時代が「辺境」の異民族を平定し、国全体を中央集権に統一していった時代だったことが良くわかった。北でも南でも先住民は無理難題を一方的に突きつけられ、それに反発反乱したあげく「征伐」され、中央に組み込まれた。 ただ、どうも蝦夷と違って隼人の場合は単純では無かったようだ。それは隼人のもつ呪力が高く評価されていたせいもあろうが、後に書くようにそれ以上に近親性が強かったことが影響しているのかもしれない。征伐されつつも律令国家を陰で支える役割もしたところが歴史の複雑で面白いところだと思う。 ▼隼人以前の熊襲(くまそ)とは さかのぼってみると、南九州における先住民・まつろわぬ民は神話時代に熊襲と呼ばれていた。日本書紀によれば熊襲の首領川上タケルは小碓尊により討たれた。この時小碓尊はタケルの名をもらい受け、日本武尊となったとされている。ここで興味深いのは熊襲を討った理由が単に「熊襲が反いた」と具体性に欠けている点(1)と、小碓尊が女装して酔ったタケルを討った点(2)、そして前述の通り日本武尊の名前のルーツが熊襲の首領にあると言う点(3)だ。 (1)について言うと具体的に中央の力が南九州に及んだのは神話時代よりかなり遅れたらしい。つまりその実、中央では熊襲の実体がよくつかめていなかった。熊襲という言葉はクマ国、ソ国をまとめて指した言葉だというのが通説になっているが、実在が確認されているソ国に対し、クマ国は実体が明確では無い様で、単に接頭語的にオドロオドロしく付記されるだけだという説もあるからだ。球磨川流域とソ国(現在の曽於郡は場所がずれる)地域は地理的にも隔たっており、考古学的にも一緒くたにできない点もその反証の一つとされている。 (2)については日本書紀の内容が事実かどうかは別として和人がアイヌに対して行っていた手口を思い出させる。酒を飲まして斬る不意打ちは弱いものに対する常套手段とされていた嫌いがある。 (3)について不自然な感じを受けるのは私だけだろうか。よく非征服者に征服者の力を見せつけるために作られた創作と言われるが、はたしてそれだけなのだろうか。この疑問ももしかすると後述の話とつながるかもしれない。 ▼神話の奥地に 民俗学者・谷川健一氏の著書によれば、天孫降臨以後の系図を調べてみると「目」と「耳」という二つの種族の結婚という象徴的な構図が見て取れるという。「目」というのは朝鮮半島からわたってきたと思われる北方系の種族であり、日本に馬を持ち込んだ天皇につながる新興勢力だ。一方「耳」というのは中国大陸の江南にルーツを持ち、弥生時代を切り開いたという大きな耳輪をつけた海人系の農耕種族という。 つまり古墳時代の始まりは端的に言えば「目」の進入により、「耳」から「目」に支配者が移り変わったことを示しているらしい。しかし「目」の進入は実際には少数であり「耳」との混合は急速に進んだ。その過程を如実に示しているのが天孫降臨の系図という。「目」は金属神を仰いでいたらしいが、農耕の発達により、急速にその力を失い、農耕神を示す天照大神にその座を奪われたという。 さて本題に戻るが、隼人は「耳」の末裔にあたる。そう考えていくと前節で不可解だったことに答えが見つかるかもしれない。タケルの話にしても歴史を真っ正直に示しているだけなのかもしれないからだ。そして以前からのもう一つの疑問、天孫降臨がなぜ南九州という大和から見ても朝鮮半島から見ても外れた、稲作も盛んでない地方で起こったと伝えられているかという問いに答えが出るかもしれない。 行く先々で、深みにはまりながらもルーツを訪ねる旅は続いていく。 それではまた。 参考文献 隼人の古代史/中村明蔵著/平凡社新書 熊襲と隼人/浜松市博物館編/第六回特別展資料 「隼人の名の由来」を探る/中村明蔵講演/平成三年度隼人町文化講演会講演録 青銅の神の足跡/谷川健一著/小学館ライブラリー | TOPページ | コラム |
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