□題名 [コラム]エミシ
□記載場所 東京
□送信場所 東京

▼東北の歴史

エミシ(蝦夷)とはどんな人だったのだろうか。東北を旅するに先立ち、私は「まつろわぬ人々」と言われたこの「エミシ」に焦点を絞り、各地でその名残や遺跡などを見ることにした。
簡単に言ってしまえば古代東北の歴史は「まつろわぬ」先住民族が次第に中央政府によって支配・征服され、組み込まれていった歴史である。先住民族は一口に言えばアイヌと同系の縄文人直系の子孫と言って良い。しかし事実はそう単純ではなく、事情はもう少し複雑だ。

はじめに東北地方稲作の歴史を押さえたい。最近では縄文人が3000年前に稲(おそらく熱帯ジャポニカ)を栽培していたこともわかっているが、それは置いておくと、弥生時代に青森県でも水田耕作が始まっていたことが明らかになっている。
ただ北東北の水田耕作は永続的に続いたわけでなく、4世紀過ぎに一端後退した。つまり弥生文化の東北への流入はかなり古く遡るものの一進一退であり、どうやら人の流入もゆるやかだったようだ。いわゆる混血もかなり進み、文化の融合も少しずつ進んだと考えられる。狩猟採集民と水田耕作民の生活領域が異なっていることは互いに幸いした。水田耕作するような湿地帯は縄文人にとっては役に立たない土地だったため、土地を巡る摩擦は少なかったのではないかと言われているからだ。このようにして先住民は少しずつ農耕をするようになり、文化はゆるやかに融合しながら古墳時代に入っていった。

中央の律令国家が積極的な東北進出をはかったのは8世紀から9世紀頃である。この時代は大量の移民や軍事・政治的な城柵建立が行われ、エミシとの摩擦、戦乱も多かった。別名38年戦争とも呼ばれている。
エミシは千人力の野蛮な土人として歴史書に描かれており、通事が必要とされ、「まつろわぬ人」として征伐の対象とされた。
しかしここでエミシを現在のアイヌと直接的につなげて考えることは良くない。当時エミシは、国家の成立には至ってなかったものの継続的な戦争に耐えうる実力・組織力を持ち合わせており、農耕も営み多くの収穫を得ていたと考えられているからだ。
一方アイヌ民族の成立は13世紀以降というのが定説で、当時の北海道は縄文をそのまま引き継いだ続縄文文化だった。ちなみにアイヌ文化成立については縄文人の直径の子孫が、続縄文、擦紋という時代を経て、北方のオホーツク文化人との交流や紛争、南方の「日本」文化との交易・紛争を経て成立したというのが概ね正しいとされている。

長々と書籍の受け売りを書いてしまったが、かつて日本の本州にも激しい異文化との交流・紛争があり、その証が東北にはいろいろと残っていることを確認したい。以下では特に西暦800年前後の激動の時代を紹介することにしよう。

▼城柵について

東北には西暦800年前後に建てられた城柵がたくさんある。今回その城柵めぐりをした。城柵は大和の律令国家がエミシ支配のために作った砦である。それらは広大なものの比較的簡単な造りで、木の柵や築地土塀という土を押し固めて作った塀で囲まれていた。目的は軍事的な砦でもあり、政庁として、また宴会を催したり、エミシに対しその力を示す象徴的な存在でもあった。

▽払田柵(801年ごろ設立)

まず最初に訪れたのが秋田県仙北町にある払田柵だ。ここは遺跡として面白いだけでなく公園としても美しくすばらしかった。余計な物を建てるだけの安っぽい整備と違い、シンプルでセンスが良い。グッドデザイン賞を受賞するだけのことはある。資料館もすっきりしていて好感がもてた。
払田柵には二重の柵があったが、外側の柵は現在畑や道路、民家などになり、史跡の敷地外になっている。そこで一部を除いて目印として旗が立ててあった。
復元とはもろ刃の剣で、よく言えばリアルだが悪く言うと想像力の墓場になってしまう。その点、旗だけが置かれていると想像力の手助けになることはあってもそれを破壊することはない。加えて人の土地であっても旗を立てるくらいなら地元の協力も得られるだろう。すばらしいアイディアだと感心した。
払田柵の外柵は木製だった。木製というと木の板で弱々しいイメージがあるが、ここの柵は強靱にも約30cm角で高さが3.6mという巨大な栗材をぎっしり詰めて作られている。その威圧感は一部の復元品を見れば明らかで、防御よりエミシ支配のシンボルとして人々に見せることを目的として作られたという説も十分納得させられる。事実内柵は何度も建て替えられているのに対し、栗材の外柵は一度建てられたきりその後は放置されたらしい。情勢変化で外柵が不要になったせいもあろうが、そもそも防衛として必要に迫られて作ったというほどでも無かったのも原因だ。

▽宮沢遺跡

宮城県古川市の宮沢遺跡も城柵跡だ。ここは東北自動車道の工事中に見つかり、部分的に整備が進んでいるが、発掘されたのはまだほんの一部。
東北地方北上川流域は日高見(ひたかみ→これがキタカミに転訛))と呼ばれ、肥沃な平野が広がっていた。東北支配はこの肥沃な大地の獲得が大きな動機になっていた。さらに当時発見された東北の金も進出の原動力になったらしい。さらに奈良大仏造立の詔が742年であり、その影響も大きかった。
ちなみにここにも面白い物があった。巨大なアクリル版だ。今は芝生になっている城柵跡地を、このアクリル板越しに眺めると築地土塀が浮かび上がる。払田柵の旗のようにこんなアイディアは安くシンプルに土地を保全しながら復元想像図を伝えることができる。一石二鳥だ。

▽胆沢城

岩手県水沢市に残る胆沢城もエミシを威圧する目的で建てられたものらしい。行ってまず驚くのが全くの平野のど真ん中にある点だ。敵からの防御を考えているとは思えない場所だ。
ここはエミシの英雄アテルイが坂上田村麻呂に投降した所として有名である。エミシ支配は単純な軍事力の結果というよりは巧妙な戦略の上で成し遂げられた物らしい。アテルイらは立派な胆沢城に圧倒され、これ以上長引く戦火が住民に何ももたらさない事を悟り、あえて投降の誘いに応じたそうだ。
坂上田村麻呂はとても賢い人物で、意外と人格者でもあったらしい。当初私は田村麻呂というと狡猾な侵略者というイメージしか持っていなかったが、史実はそう単純では無いようだ。田村麻呂は渡来人の血を引く者であり、それままでかたくなに戦火を広げつつもエミシに負けつづけた紀古佐美(きのこさみ)などと異なり、和を重んじる作戦に出たからだ。そもそもエミシ側は戦乱を望んでいない。戦力で勝ち目がないとわかったアテルイらが共存共栄の道を選ぶのは当然の成り行きでもあった。
一方、田村麻呂はアテルイに東北統治をしてもらいたかったらしい。そもそも田村麻呂は軍事的な支配など無理なことを知り尽くしていたし、アテルイの人望があれば必ずや繁栄を築けると考えたからだ。
しかし歴史が為政者のつまらない言動にもてあそばれるのは現代と変わりない。アテルイらは上京後、田村麻呂の誓願にも関わらず公家によって処刑されてしまった。

▽多賀城(724年設立)

多賀城は多賀城市にある古い部類の城柵跡である。ここ多賀城の歴史で興味深いことは伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)により、焼打ちされている点だ。では呰麻呂とはどんな人物だったのだろう。彼はもともとエミシだったものの、国家側ついて地方を支配していた。ところがエミシ出身であることをあまりに嘲られたことに腹を立て、突如反旗を翻したそうだ。その焼き討ちの際の燃えかすが実際に出土しているというから生々しい。
ここで見るように中央の律令国家はエミシ支配にかなり手を焼いていたのだが、実際には単純な侵略ではなく、エミシを多く利用した「夷を持って夷を制す」政策だった。エミシが一枚岩で無い点を巧みに突き、その内紛を最大限に利用した。
つけ加えると、「夷を持って」の夷はエミシ自身であるばかりでなく、中央で地位を築くことに苦労していた田村麻呂ら渡来人にも当てはめられそうである。彼らは特殊技能を持っていたにも関わらず冷遇され、真っ先に戦線に送られたらしい。

話が脱線するが「夷を持って夷を制す」の構造はアフリカやアフガニスタン、そして中東の歴史にも当てはめられる。政治的思惑で一方、あるいは双方を影で支援するやり方は植民地時代から冷戦時代を経て(少しずつ学んでいる兆候が見られるものの)大筋では変わっていない。扇動される方にも責任はあるが、死ぬのはいつも地元民であり、第三者が漁父の利を狙うという点にも類似性がある。
せめて田村麻呂やアテルイ並に賢い人がいればもう少し平和が訪れるのではないだろうか。日本には「負けるが勝ち」という、したたかな諺がある。穏健な思想を平和ボケと評する向きもあるが、独善的正義や同害報復の思想では21世紀の安全と繁栄は確保できないだろう。

▼アテルイ

アテルイが投降した胆沢城は水沢市にある。また、水沢市からほど近い北上川流域はアテルイが紀古佐美と戦い、巣伏の戦いで圧勝をおさめた場所だ。
その水沢市に行ってみてアテルイの人気ぶりに非常に驚かされた。手放して地元の英雄になっている。
町には「アテルイ広場」があり、アテルイと縄文土器をあしらった不思議な「北方の王者 アテルイ像」があった。博物館には「アテルイ通信」なるものがファイルされ、最近田村麻呂ゆかりの京都清水寺にアテルイの碑を建立した、といった記事で埋め尽くされていた。
さらに町内会の掲示板には「アテルイは不法投棄を許さない」とか「アテルイ(警察署のかわら版)」「心の架け橋inアテルイ」といったポスターが張られていた。
水沢だけ多少例外的な感じもあるが、確かにこの地の人は田村麻呂よりエミシの英雄アテルイにシンパシーを感じている。その事実を見られたことは大変面白かった。
ちなみにアテルイ広場一帯は現在でも「跡呂井」と言うそうだ。土地の思いと、地名という生命力に改めて感動させられた。

▼達谷窟毘沙門堂(たっこくいわやびしゃもんどう)

平泉の山中に達谷窟というお堂がある。典型的な神仏習合の社寺で洞窟に隠れていた「悪路王」を田村麻呂が征伐したという伝説が伝えられている。
悪路王はエミシの首長で悪事を働き、地元の良民は困り果てていたそうだ。その悪路王はアテルイのことを指すとも言われている。
達谷窟毘沙門堂の縁起はおおむね上記の通りなのだが、それを書き替えるべきだと苦情が多く寄せられるらしく、その苦情に対する反論がまた長々と論じられていたから面白かった。曰く
「(前略)蝦夷を征伐し佛教を拡め、みちのくを鎮めた恩人に対する思慕が多くの英雄伝説を残し(ている)(中略)。大将軍創建を伝える社寺がこれほど多い理由をなんと説明するのか。(中略)(毘沙門堂は)大将軍創建の精舎である事を何よりの誇りとし、日夜心を込め「南無田村大将軍」と唱えている。(中略)社寺にとって縁起とは思想でなく信仰なのである。(後略)」
そこまで頑なにならなくても、という気はするけど、ここまで突っぱねられるとかえってさわやかだ。事実の真偽はともかくとして確かに安易に縁起が書き換えられるのは良くない。たとえ一方的であれ、生の歴史として当時を伝え、生命力を持ち続けているのは頼もしいからだ。思わず笑ってしまったけど。

参考図書
「古代蝦夷の英雄時代」工藤雅樹/新日本新書
「北天鬼神--阿弖流為・田村麻呂伝--」菊池敬一/岩手日報社

以上「エミシ」でした。


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